第27話 「ナースたちのジェル会議」
ナースステーションの一角。
物品棚の前には、当直明けの気怠さと、医療者特有の集中力が同居していた。
(朝の補充チェックは看護業務の基礎。“物品がある”という前提のもとで安全が回っている。
逆に言えば、ひとつ欠けると現場の流れがすぐ乱れる。)
三人のナースが集まっていた休憩スペースは、コーヒーの香りと電子カルテの機械音が交互に漂う、
病棟の“脳”とも言える場所だ。
ゆぃゆぃ先輩は腕を組んで真顔。
その隣であいかとお美々は、なぜか小声で笑いをこらえている。
「……で? “ジェル”が足りないってどういうこと?」
その声に、あいかがタブレット端末をチェックする。
“潤滑ジェル”は、採血・点滴のルート固定、カテーテル挿入、
超音波検査、泌尿器系処置──用途は幅広い。
(特に泌尿器系は、粘度や成分が安全性と直結する。
だから本来、代用品は極力避けるのが原則。)
「すみません、昨日の夜勤で、潤滑ジェルの在庫が切れちゃって……」
お美々が申し訳なさそうに言う。
棚の一段には、空になったジェルケースが3本並んでいた。
夜勤帯は人数が少なく、物品補充も追いつきにくい。
(在庫切れは“事故”ではなく“環境要因”。責めるより仕組みを見直すのが医療のセオリー。)
「それで、“代用品”を試したんですよ」
あいかがフォローする。
ゆぃゆぃ先輩の眉がピクリと動いた。
「代用品? まさか――」
「はいっ! ポポローションです!」
胸を張るお美々。
本来の潤滑ジェルは、医療用に調製された無菌パック、アレルギーリスクの低い成分、
適切な浸透圧、そして粘度がポイント。
代用品は、皮膚トラブル、感染リスク、手技の抵抗感と摩擦の増加──複数の問題が生じうる。
「……あれって、ハンドマッサージ用でしょ?」
ゆぃゆぃ先輩が額を押さえる。
医療者間でよく交わされるのが、“粘度”の話。
粘度は手技の成功率に直結し、特に導尿や膀胱留置カテーテルでは、
適正粘度によって尿道損傷や疼痛が大きく変わる。
「でも、“ポポ”って名前がなんか癒やされません?」
お美々は笑顔のまま、手のひらで感触を再現。
しかしその粘度は、医療用ジェルより明らかに低く、潤滑持続時間も短い。
「いや、癒やしの問題じゃないの。粘度と成分が違うのよ」
ゆぃゆぃ先輩は、医療物品の安全性評価にも厳しいタイプだ。
実際、医療用ジェルには抗菌性はなく、無菌操作時には“ジェル量を最小に”が鉄則だ。
「それがですね、実際けっこう使えるんですよ?」
あいかが小声で続ける。
「患者さんも“ぬるぬるして気持ちいいです”って……」
「もう、言い方!」
医療現場での“言い回しひとつ”がトラブルの種になることは誰もが知っている。
ステーションの奥から主任ナースが顔をのぞかせた。
主任は勤務15年のベテランで、物品管理・処置手技双方に厳しい。
「ちょっと、あなたたち何の話してるの?」
「潤滑ジェルの適正代用について、実地検討中です!」
あいかが即答。
主任の視線はジェル棚から三人へ、そして書類へと移る。
(主任は“ジェル不足=現場のミス”とは判断しない。まず原因を探し、次に改善策を考えるタイプ。)
数秒の沈黙の後──
「……本当に? 声のトーンがどうにも怪しいわよ」
主任が去り、三人は吹き出した。
休憩スペースの机には、ジェルの種別表と、感染対策ガイドラインのコピーが置かれている。
本来、代用品を使用する際は「副作用・禁忌・皮膚刺激性」を確認する必要があるため、
看護記録にも残すべき案件だ。
「じゃあ、“医療補助ジェル・ポポⅡ”に改名しましょうか!」
「お美々、シリーズ化しないで」
タイミング悪く研修医が現れた。
「お疲れさまですー。あの、潤滑剤の件なんですけど……」
「ポポの話は後でっ!」
三人の声がハモる。
研修医は一瞬固まり──
「……えっと……ポポ……?」
「違いますっ! 医学的な話ですっ!」
ゆぃゆぃ先輩が全力フォロー。
研修医が逃げるように去ったあと、あいかが呟く。
「……あいか先輩、絶対誤解されましたね……」
「うん。もう“怪しい液体を研究する看護師たち”だと思われてるわね」
お美々が小さな声で言う。
「ポポローション、罪なやつ……」
夕方。
物品管理簿には、正式な補充依頼が貼られていた。
【補充依頼】
潤滑ジェル(正式名)
※ポポではない方。
(医療現場は“安全”の積み重ね。ひとつのジェル、ひとつの粘度が、処置の成功率を左右する。
だからこそ笑いながらも“正しいものを選ぶ”のが看護。)
ゆぃゆぃ先輩はペンを置き、微笑んだ。
「次からは正式名称でいきましょうね」
その笑顔は、どんなジェルよりも滑らかで、
職場を明るくする“本物の潤滑剤”だった。
◇
潤滑剤の医療的メリットとデメリット
― 身体負担の軽減という“機能価値” ―
1. 潤滑剤が果たす基本的役割
潤滑剤は、本来“摩擦の低減”という単純な機能を提供する医療用品である。
皮膚・粘膜は摩擦に弱く、乾燥状態での接触は微小損傷を引き起こす。
そのため医療現場では、内診・器具挿入・処置時に日常的に使用される。
男女が身体的な親密さを築く場面においても、
原理は同じで、摩擦を下げることで安全性と快適性を確保する。
2. メリット:身体にとっての実質的利得
●(1)摩擦の軽減による損傷予防
乾燥した粘膜は裂傷や炎症を起こしやすい。潤滑剤は摩擦係数を下げ、微小なキズの発生を抑える。
これにより、痛み・出血・その後の感染リスクが大幅に低減する。
●(2)外陰部・膣内の緊張の緩和
痛みの不安は筋緊張を誘発し、さらに痛みを増幅する。
潤滑が十分だと、身体は反射的にリラックスし、負荷が下がる。
●(3)性交痛の改善
特に以下のケースでは医療的に有効とされる:
更年期による膣乾燥
産後・授乳期
服薬による乾燥(抗うつ薬・抗ヒスタミン薬など)
そもそも粘膜が乾燥しやすい体質
これらは意志や感情とは別の“身体の状態”であり、潤滑剤の利用は合理的かつ安全な選択となる。
●(4)安全性の向上
表面の摩擦が減ることで、避妊具(特にコンドーム)に加わる応力が低下し、破損の確率が下がる。
医療現場でも同様の理由で潤滑剤が使用される。
3. デメリット:選び方と環境による“潜在リスク”
●(1)種類による刺激の差
潤滑剤には「水溶性」「シリコン」「油性」の3種がある。
水溶性:最も安全。乾きやすいので追加が必要。
シリコン:長持ちするが、洗浄に時間がかかる。
油性:コンドームを劣化させるため医療的には推奨されない。
特に香料・添加物入りは刺激性皮膚炎を起こす可能性がある。
●(2)過度な使用による“摩擦情報の喪失”
臨床的には害はないが、感覚が過度に滑らかになることで“接触の手がかり”が減る場合がある。
これは身体的なリスクではないが、操作性に影響することがある。
●(3)アレルギー反応の可能性
成分に対して稀に接触性皮膚炎を起こす。
特にグリセリン高配合の製品は、敏感な人では刺激を感じる場合がある。
医療的には“低刺激・無添加”のものが最も安全。
●(4)不適合な組み合わせによるトラブル
油性潤滑剤 × ラテックス製コンドームは、避妊具の破損リスクを高める。
医療的には避けるべき組み合わせとされる。
4. まとめ:安全性を高める“医療的ツール”
潤滑剤は、身体の負荷を減らし、痛みや損傷を防ぎ、安心感を生む “安全性向上の道具”である。
適切な種類を選び、粘膜の状態に合わせて使用すれば、医療的にも非常に有効なサポートになる。




