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第26話 「定期検査の落とし穴」

午前中の外来は比較的落ち着いていた。

診察室から少し離れた処置室では、あいかとお美々が定期検査の準備をしている。

今日の目玉(?)は、毎月通院してくる70代男性の田中さん。

元大工で体格はがっしりしているが、心臓病と高血圧の持病があり、月一で血液検査と心電図を受けている常連だ。


「今日は採血と心電図、尿検査もですね」

あいかがカルテを確認し、お美々に指示を出す。

「はいっ!採血セット準備します」

その手元をゆぃゆぃ先輩が横から覗き込み、にやりと笑う。

「お美々、今日は“きっちり抜いて、スッキリさせてあげなさい!”」

「は、はいっ!」


やがて田中さんが処置室に入ってきた。

「おはようございます〜。あれ、今日は3人そろってるんだ」

「はい、今日はチーム総出です」あいかが笑顔で応える。

「じゃあ…よろしく頼むよ」


あいかが採血準備を整えながら、例の口癖を口にする。

「今抜きますからね〜、がんばってください!すぐ楽になりますよ!」

「なんか、その“抜く”っていう言い方…毎回ちょっとドキっとするんだよなあ」

田中さんが照れ笑いを浮かべると、お美々もつられて笑ってしまう。


針を刺す瞬間、あいかは慎重に血管を探る。

「…はい、入りますよ」

針先が血管に当たり、赤い血液がスムーズにチューブへ流れ込む。

ゆぃゆぃ先輩が横からじっと見て、軽く頷く。

「うん、いい流れ。ちゃんと抜きなさい!」


採血が終わり、次は心電図。

お美々が電極を貼る位置を確認しながら田中さんに声をかける。

「胸にシール貼りますね〜。ちょっと冷たいですよ」

田中さんが少し身をよじると、ゆぃゆぃ先輩が冗談めかして言う。

「動いちゃダメよ、お美々が貼った位置がズレたら記録が変になるんだから」

「す、すみません…」と田中さんも苦笑い。


検査は順調に進み、最後は尿検査。

採尿カップを手渡しながらあいかが説明する。

「この線までお願いしますね。無理はしないで大丈夫ですよ」

田中さんは冗談半分に「これは“抜く”とは言わないよな?」と聞き返し、処置室に笑いが広がった。


数十分後、結果が揃い、医師の診察へ。

検査値はやや高めの血圧以外、特に異常はなし。

処置室に戻ってきた田中さんは、「今日もスッキリした」と笑顔で帰っていった。


――が、その直後、処置室に別の患者からの緊急呼び出しが入る。

40代男性、採血中に貧血症状で倒れかけたという。


あいかとお美々はすぐ駆けつけ、椅子からベッドに移動させる。

「今抜きますからね〜、がんばってください!すぐ楽になりますよ!」

あいかが針を抜きながら声をかける。

お美々は足を少し高くして血流を戻す姿勢にする。

ゆぃゆぃ先輩が冷静に指示を飛ばす。

「顔色、脈、血圧チェック!水分補給もね」


幸い、数分で顔色は戻り、患者も「ちょっと緊張しただけです」と苦笑い。

「やっぱり俺、血見るとダメみたいで…」

その言葉に、お美々が思わず口を滑らせる。

「でも最後まできっちり抜けましたよ!」

患者は一瞬きょとんとし、次の瞬間ふっと笑った。

「なんか変な励まし方だなあ…」


処置が終わり、再び平常業務に戻った処置室。

ゆぃゆぃ先輩があいかとお美々を見回して、にやりと笑う。

「今日も無事に全員スッキリ…いい日じゃない」

「先輩、それ“まとめ”に使うのやめません?」あいかが苦笑するが、

お美々は小声で「でも、なんかクセになりますね…」と呟いていた。


笑いがふっと途切れ、処置室の空気が静かに落ち着きを取り戻した。

モニターの小さな電子音が、空間のリズムを刻む。


あいかは使い終えた器材を片付けながら、心の中でさっきの対応を反芻する。

(“軽いめまい”で終わることがほとんど。でも、今日みたいに立位で急に血圧が落ちると──ほんの数秒で命の方向が変わることがある。)


お美々がそっと近づく。

「さっき、足を上げる高さ……あれ、どうやって判断してるんですか?」


「迷走神経反射のときは、まず水平。

そこから下肢挙上で静脈還流を促す。

高すぎても負担だから、患者さんの顔色と呼吸を一緒に見るの」


お美々は真剣に頷く。

「……血圧じゃなくて、表情と、呼吸なんですね」


「数字は“結果”。

でも身体は先にサイン出すから。」


ゆぃゆぃ先輩がカルテ画面から視線を上げた。

「あとね、患者さんが“冗談でごまかす時”は、本当は怖かったサインよ。」


お美々がはっとする。

「さっきの方……ちょっと笑いながら“緊張しただけ”って……」


「そう。だから“よかったですね”だけじゃなくて、

“ちゃんと見てます”って空気を返すの。」


(安心は、処置だけで作るんじゃない。

“見守られている”という感覚で作る。)


看護助手が次のトレーを運び込み、

新しい採血管と駆血帯が静かに並んだ。

アルコール綿の匂いが、また空気に溶ける。


お美々が深く息を吸う。

「……怖さって、慣れますか?」


「慣れなくていいよ。」

あいかは柔らかく笑った。


「ただ、“怖さの質”は変わる。

『失敗したらどうしよう』から

『守れるはずの命を守りたい』に。」


ゆぃゆぃ先輩が白衣の袖を整え、冗談めかして言う。

「そしてね、怖さをそのまま抱えられる人は強い。

……泣きたくなったら、いつでもトイレで泣きなさい。貸すから。」


「せんぱい、それ励ましですよね……?」

「もちろん。全力で。」


三人の間に、短いけれど確かな静けさが落ちる。

そして再び、日常の気配が押し寄せた。


「次の患者さん、お迎えしますね。」

あいかは新しい手袋をはめ、姿勢を整える。


外来は戦場じゃない。でも、油断は一秒も許されない場所。

定期検査という名の“見落としの罠”。

その一瞬一瞬を、今日も越えていく。



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