第25 「奥さん登場!」〜誤解と笑いの処置室〜
午前10時半。外来処置室は、いつもの穏やかな時間を過ごしていた。
(消毒液の揮発する匂いと、滴下音のリズム。午前の光は器具の縁を淡く照らし、フロアのどこかで看護師靴の小さなステップ音が響く。緊張と安心が同居する、いつもの“動き始めの静けさ”。)
先ほどまで点滴を受けていた佐伯さんが、帰宅のために支度をしている──はずだった。
「……あら、あなた」
その低く、少し鋭い声に、処置室の空気が変わった。
振り返ると、入り口には上品な和服姿の女性。佐伯さんの奥さんだ。
(患者家族の視線は、時に体温より鋭い。ここからは“説明力”も看護技術の一部。)
「ど、どうしてここに?」
「あなた、最近通院のたびに妙に機嫌がいいじゃない。気になって来てみたのよ」
その視線が、あいか、ゆぃゆぃ先輩、お美々の3人をゆっくりとなぞる。
──あ、これ完全に誤解されるやつだ、と3人の脳内に同時に警報が鳴る。
(心電図が鳴るみたいに、緊張の波が現場に走る。)
「あの、奥様。私たちはあくまで看護業務として──」
あいかが説明を始めようとした瞬間、
「ほう、看護業務? ……じゃあ、その“抜く”っていうのは?」
完全に聞きかじりの単語だけ拾ってきたらしい。お美々が思わず「えぇっ!?」と声を上げる。
(“言葉”は刃にも盾にもなる。医療者は、誤解を切らずに、真意だけを残す技がいる。)
「奥様、それは……」
横からゆぃゆぃ先輩がスッと前に出た。
「奥様、誤解です。“抜く”は医療用語で、点滴の針を外すとか、カテーテルを取り外すこと。ほら、今も──」
そう言って、ちょうど佐伯さんのルートを外す。
「はい、抜きますからね〜、頑張ってください!すぐ楽になりますよ!」
職人芸のような手さばきで針を外すと、奥さんの眉がわずかに緩んだ。
(テープをそっと剥がし、圧迫時間を頭で数える。痛みを最小に、安心を最大に──看護は“優しい正確さ”。)
──しかし。
「……でも、あなた、顔に何かかかったって笑ってたじゃない」
「あ、あれはですね!」
お美々が慌てて説明しようとしたが、
「あいかちゃん、どうする?」とゆぃゆぃ先輩が意味深に耳打ち。
「どうするって……誤解を解くしかないでしょう!」
(逃げず、丁寧に、短く。家族説明は、信頼を“つくる”時間。)
あいかは深呼吸して、真っ直ぐ奥さんを見る。
「奥様、医療現場では、時に飛沫や消毒液が飛ぶこともあります。それを笑いに変えてくださる患者さんは、私たちにとっても救いなんです」
その真剣な表情に、奥さんの頬がふっと緩む。
「……そう、あなた達、本当に看護師なのね」
(目線の奥にある不安──“病気を奪う現場”ではなく、“生きられる現場”だと伝わった。)
空気が少し和らいだその時。
「まぁ、でもこの人がここに来るのを楽しみにしてるのは間違いないでしょうけど」
佐伯さんは苦笑いしながら、
「そりゃあ、こんな綺麗なナースさん達に囲まれたら、元気も出るよ」
と余計な一言を放った。
「あなた……!」
再びピリッとした空気が走り、ゆぃゆぃ先輩が咄嗟に割って入る。
「奥様、元気が出るのも治療の一環です。笑顔は免疫力を上げますから」
「……そういうもの?」
「ええ。“笑顔で抜くのが一番”って、私たちのモットーですから」
奥さんは小さく吹き出し、最後には
「じゃあ、あなた。これからもちゃんと通って元気でいてね」と佐伯さんの腕を軽く叩いた。
(その一言は、どんな点滴より効く薬。家族の支えは治療の骨組みになる。)
帰り際、奥さんはあいかに小声で囁いた。
「あなた達、本当に信頼できるのね。……でも、時々は手加減してあげてね」
意味深な微笑みを残し、二人は帰って行った。
(“手加減”──優しさの言い換え。患者の強さを知っている人の言葉だ。)
処置室に静けさが戻ると、お美々がぼそっと。
「……あいか先輩、私、絶対に変なこと口走らないようにします」
「そうしてくれると助かるわ」
「お美々、でもたまには失敗も悪くないわよ。場が和むもの」ゆぃゆぃ先輩が肩をすくめる。
(失敗は“罰”じゃなくて“経験値”。消毒、反省、次は精度を上げればいい。)
笑いと誤解とプロの誇りが交差する、今日も平和な外来だった。
(次のカルテを手に、私はそっと深呼吸。誤解も笑いも含めて、ここは“生を繋ぐ場所”。その日常を、今日も一歩ずつ。)




