20話 「朝焼けのバイタル」
夜勤明けの病棟は、いつもより静かだった。
天井の照明はまだ朝色に切り替わる前で、白々しい光が床に細く伸びている。
私たち三人は、処置室の片隅で手袋を外しながら、小さく息をついた。
昨夜――変異型の連続症例。
あの圧。あの震え。
助けられた命の重みが、まだ手に残っている気がした。
「腕、痛くない?」
お美々が、そっと私の手を見つめてくる。
その顔は、まだ少し蒼ざめていた。
無理に笑おうとして、唇の端だけ上がっている。
「大丈夫。お美々こそ、指……赤くなってるよ?」
「う……根性で押さえてたから……」
「無理しないでね?」
その言葉に、お美々の目が揺れる。
強がりと、怖さの名残と、そして……自分の役目を果たせた誇り。
全部が、朝露みたいに光って見えた。
ゆぃゆぃ先輩が、肘でお美々の脇腹を軽くつつく。
「ビビっても動いた。それが一番偉いの。胸張りなさい」
「……はいっ!」
いつもよりずっと優しい声音だった。
ゆぃゆぃ先輩の言葉は刺さるけど、今日のは、背中にそっと手を添えるみたいな温度だった。
――処置中、私は指を震わせながら、導管角度を微調整し続けた。
ジェル濃度を三段階で変え、粘膜反応を確認しながら進める。
少しでも乱暴にしたら、破裂。
それを知りながら、患者さんの羞恥が頂点にある瞬間にも、優しく支えた。
震える息と視線――“恥ずかしい”と“助かりたい”が混じる温度。
看護は、ただ排液させる行為じゃない。
尊厳ごと支える、静かな戦闘だ。
指先を開いたり閉じたりする。まだ、夜の震えが皮膚の奥に残っているようだった。
モニターのアラーム音、金属の触れる音、患者さんの震える呼吸──全部が耳の奥に残響している。
ステージ3後期の圧は、あの瞬間、手の平を貫通するみたいだった。
“押し返される痛み”を受け止めるのは、筋力だけじゃない。迷いを捨てる気持ちと、触れた人の恐怖に寄り添う覚悟。
お美々がそっと、指に湿布を貼ってくれた。
「先輩、こういうのもケアのうちですからね」
彼女の手は少し震えている。だけどその震えは“怖かった”だけじゃない。
ちゃんと戦った証拠だ。
私はジェル記録カードを開く。昨夜のロット番号、粘度数値、pH、塗布タイミング。
全部、等間隔で並んでいる。
──機械みたいに精密に、でも心は絶対に機械にならないように。
ゆぃゆぃ先輩が、テーブルに指をトントンと軽く打ちながら言った。
「次に備えるの。今日も、明日も。変異は止まらないから、私たちも止まらない」
それは鼓舞じゃなく、確認みたいな声。
自分の心を見つめるための言葉。
胸に手を当てると、拍動がまだ早い。
でも、その鼓動は逃げ腰じゃない。
“また救いたい”って願う形で鳴っている。
朝焼けの光が、器具台のステンレスを柔らかく照らした。
金属光が丸くにじんで、まるで呼吸しているみたいだった。
(疲れてる。でも、まだ動ける)
(怖かった。でも、逃げないって決めた)
静かな決意が、ゆっくり胸の奥に染みていく。
* * *
カンファレンス室。
薄いガラス越しに朝の光が差し込み、書類の影が伸びていく。
感染症研究部の古賀医師が電子パネルを操作し、立体分子図を投影した。
複雑なタンパク質の鎖が絡み合い、青い光が脈打つ。
「変異型E.O.S.。精管収縮タンパク質の持続強度が従来比で二倍。
外部操作への抵抗が上昇しています」
医療スタッフたちが静まり返った。
緊張というより、冷たい湖に沈むような静けさ。
「ジェルは有効ですが、濃度を上げないと破裂リスクが跳ね上がる。
同時に、摩擦係数と粘度を補う手技が必要です」
“手技”。
その言葉に、私たち看護師の背筋が自然と伸びる。
医療の名を冠していても――
この行為は、患者さんの全てを預かるということ。
羞恥も、恐怖も、命も。
その境界線に立って、手で守る。
(だから絶対に乱暴にしない。冷たくしない。
尊厳ごと抱きしめる。それが、私たちの看護)
「……質問」
ゆぃゆぃ先輩が手を上げた。
表情は穏やか、だけど目は鋭い。
「患者の羞恥反応が強くなる可能性は?」
「ええ。防御反射の強化と同時に、精神的刺激にも敏感になるはずです」
お美々の眉がきゅっと寄った。
“羞恥が増える”という現実が、胸を刺す。
古賀医師は続ける。
「ですから――心理ケアがこれまで以上に重要になります。
『怖くない』『恥ずかしくない』という安心を、最初の接触で与えてください」
それはまるで、私たちの世界を肯定してもらえたみたいで。
心の奥で、小さく火が灯った。
(うん……出来る。絶対に)
* * *
朝の巡回。
ナースシューズが床を踏むたび、眠気よりも使命感が胸に広がる。
「緑川さん……」
声がかかった。昨夜救った患者さん――佐伯さんのベッド。
まだ顔色は薄いけれど、目に光が戻っていた。
「昨日は……ありがとうございました……」
声は震えて、涙がにじむ。
羞恥と、助けられた安堵。
その混ざり方は、胸の奥を少しだけ締め付ける。
「いいんですよ。生きていてくれて、よかったです」
そっと笑って言うと、彼は目を伏せ、布団を握りしめた。
きっと、思い出すたびに胸が熱くなるのだろう。
男の人にとって、この病は――命と同時に、尊厳との闘いだ。
「次は、怖くないようにしますからね」
「……はい」
その返事が小さくても、強かった。
* * *
休憩室に戻ると、お美々が紙パックのカフェオレを吸っていた。
目の下のクマはそのままだけど、口元には少し元気が戻っている。
「ねぇ、あいか先輩」 「ん?」
「私……昨日、ビビってたけど……すっごく悔しくて。
もっと上手く、優しく助けたいって思っちゃった」
ああ、この子は強い。
根性は筋肉じゃなく、優しさの根元に宿っている。
「その気持ちが一番大事だよ」 「……へへ。がんばります」
照れ笑いが、カフェオレより甘い。
そこへ、ゆぃゆぃ先輩がペットボトルのお茶を持ってきた。
「今日も訓練。手首と指のストレッチから」
「げ……筋トレですか……」
「当然。優しさって体力。医療は綺麗なスポーツよ」
その言葉に思わず笑った。
そうだ、まさにそう。
優しさは技術で、技術は筋肉で、筋肉は使命で支える。
(私たちは“抜くだけ”じゃない。生きたい気持ちに寄り添って、
恥ずかしさも守って……ちゃんと、救うためにここにいる)
朝焼けが病棟の窓に差し込み、木目の床を照らした。
新しい一日の最初の光だ。
私は胸に手をあて、小さく息を吸う。
(さあ、今日も守るよ)
その光は、どこか誓いのようで。
命の温度を抱いて立つ私たちを、そっと照らしていた。




