第18話「元カレ、診断結果は予想外」
あの地獄みたいな夜勤が明けて、数時間の仮眠のあと。
まだ指先にあの脈動の残像がある。
手首は重いし、握力は戻りきってない。
それでも朝の光の下では、不思議と笑っていられる。
人は、こうして日常に戻るようにできてるのかもしれない。
処置室。
ゆぃゆぃ先輩は白衣の袖を捲り、段ボールを勢いよく開封していた。
「ふふん♪ 見てあいかちゃん。新ロットのジェルよ。補充完了!」
「助かります……。もう手技での処置は、神経まで擦り切れる気がしましたよ」
「筋トレじゃないの。れっきとした高度医療よ。誇り持ちなさい」
お美々はタブレットで発注履歴を確認している。
目の下に薄いクマ。昨夜の戦いは私たち全員の体に残っていた。
「在庫本数よし。温度管理ログも正常。前回みたいな冷却ユニット停止事件はナシね」
「今回は賞味……じゃなくて使用期限も余裕あるし♪」
「今“賞味”って言ったわよね」
「言ってないわよ? たぶん疲れね、幻聴よ」
どこかで笑いが漏れる。
私も肩の力が少し抜けた。
ジェルの銀パックをラックに並べながら、お美々が説明を始める。
「E.O.S.は4段階。ステージ1は自然排出で抑制、2でジェル介入……」
「3以上は病棟の守備範囲で、ステージ4は……命に関わる」
「昨日は……ほんと、ギリギリだったなぁ」
自分の前腕を揉みながら、私は小さく息を吐いた。
まだ筋の奥がぴりぴりする。
体内排液の圧を誘導したあの時間が、骨に残ってるみたいだ。
その時、処置室のドアがノックされた。
「搬送でーす。指名は……お美々さん」
「え、指名? だれ……」
「よっ、久しぶり!」
にやけ顔で手を振りながら入ってきた男。
妙に爽やかに見せかけて、声は軽い。
「……た、拓真!?」
「なんかさ、ネットで見たんだけど。この病棟、頼めば3人で排出抜きしてくれるってマジ?」
空気が凍る。
ゆぃゆぃ先輩は満面の笑み。嫌な予感しかしない。
「もちろんよ〜♪ 医療行為でね」
「ちょっと先輩!言い方ッ!」
私は深呼吸し、カルテ端末を受け取った。
搬送票は“軽症疑い”。自己申告では「ステージ1後半」。
でもE.O.Sは本人の主観ほど信用できない病気はない。
「モニターつけます。座位保持できなかったら言ってください」
「よゆーよゆー。ほら俺、体力だけはあるし?」
言いながら顎を上げる。
昔から変わらない自信家だ。
お美々は無言。目だけが怒っている。フードの奥でマスクがぴくぴくしている。
私は触診用の手袋を取ろうとして、やめた。
ジェル処置は素手のほうが微妙な圧変化が読める。
アルコールを二度噴き、手首まで拭う。
「接触しますね。痛みや違和感あったら言ってください」
患者の下腹部は軽度の発熱。
触れた瞬間、深部に小さく跳ねる収縮。
反射性陰部神経の微細なスパズム。
ステージ1の領域じゃない。
モニター起動。
心拍104、軽度の脈不整、バイタル圧3.2域。
「……ステージ2中期です。油断してたらステージ3に上がります」
「は? そんなヤバいん?」
「自覚症状軽くても、内部圧は正直ですから」
私は冷静に言った。
彼は笑みが消え、目を泳がせる。
お美々はほんの一瞬だけ、心配そうな目をした。
でも次に浮かんだのは職業モードの光だ。
「ジェル塗布します。圧誘導は私がやるわ」
先輩が静かに頷き、ジェルを均一に伸ばす。
透明な液が体表で薄膜を作り、微かな冷却反応が皮膚から上がる。
収縮波が緩み、排出路が開きやすくなる瞬間を待つ。
ただの作業じゃない。
命を護るための細胞と神経の戦いだ。
「……は、はえぇ……なんか楽に……」
「まだです。ここから圧の逃がしです」
お美々の手首が微細に動く。
柔らかいのに、流れが強制されていく感覚。
私は補助しながら、圧の変化を読み取る。
反応が均一化し、体内排液が安定ルートに入る。
数分後。
モニターの警告線が消えて、数値がストンと降りた。
「……ふ、あ……助かった、感じする……」
情けない声音。
でもそれは生きている証拠だ。
「処置完了。今日のうちに内科チェックも行って」
「う、うっす……」
立ち上がる拓真に、お美々が言う。
「次、無茶したら本気で怒るからね」
「……お前やっぱ、優しいよな」
「黙って帰れ!」
ドアが閉まり、静寂が戻る。
「……はぁ。疲れた。変動型のあとに元カレって何の罰です?」
「医療現場はドラマよりドラマよ」
ゆぃゆぃ先輩が肩をすくめる。
「次は普通の患者さんだといいね」と私は苦笑した。
でも、どこか胸の奥にざらついた疲労感。
それでも、前より少し強くなった気がする。
E.O.Sの戦場は続く。
今日もまた、新しい波がやってくる。




