第1話 新型精液過多症(S.O.S.症候群)の時代
西暦2200年、東京。
街の上空を覆う灰色の雲は、もう十年以上、晴れ間を見せていない。
気温と湿度は常に高く、人の身体は常に汗ばんでいる。
だが、この不快な気候よりも、世界の人々を苦しめているものがある。
――新型精液過多症。
通称 S.O.S.症候群。
成人男性の生殖機能が暴走し、際限なく精液を生成し続ける病。
体内に留め続ければ、内圧の上昇と器官損傷により、最悪は死に至る。
唯一の治療法は「排出」、つまり抜くことだ。
発症率は年々上昇し、今や成人男性の三人に一人がこの病に罹患している。
世界中で患者が倒れ、救命処置のために「抜きの専門医療チーム」が組織された。
その中でも、東京総合救命医療センター最上階――
通称「ヘブンズゲート科」は、国内有数の救命件数を誇る。
私、五鈴あいかは、そのヘブンズゲート科で働く看護救命士。
今夜も、静まり返った夜勤フロアに、甲高いアラームが鳴り響いた。
「救急搬送!成人男性、意識混濁、内圧危険域突破寸前!」
自動ドアの向こう、ストレッチャーを押し込んできた救急隊員の声は切迫していた。
「来たわよ、あいかちゃん」
低く落ち着いた声が背後から響く。振り返れば、そこには私の直属の上司であり、
この科のリーダー ――緑川唯、通称ゆぃゆぃ先輩がいた。
38歳。切れ長の瞳と整った黒髪、私生活では女神のように優しいお姉さんだが、
現場に出れば別人のようなプロフェッショナルに変わる。
「状況は?」
「内圧2.8リットル換算、脈拍140、呼吸数28、皮膚蒼白。搬送中に2回痙攣あり」救急隊員の報告が続く。
ゆぃゆぃ先輩は短くうなずき、私をまっすぐ見据えた。
「いい?考える暇はないわ。とにかく抜きなさい。命はそれで繋がる」
私は喉を鳴らし、頷く。
ストレッチャーの患者は、四十代前半くらい。苦しげに呻きながら、股間を押さえている。
股間の膨らみは異常なほど硬く、すでに局部の中に内圧の影響で脈打つ影が見える。
「今抜きますからね~、がんばってください!すぐ楽になりますよ!」
私の声は、患者の耳に届いているのか分からない。
それでも笑顔を崩さず、専用ジェルをたっぷりと手袋に取り、迅速に器具をセットする。
処置室内は、人工照明と機器の作動音、そして患者の荒い呼吸だけが響く。
私は器具を適切な位置に装着し、リズムを保ちながら手を動かす。
ゆぃゆぃ先輩が横から圧をかけ、サポートのお美々――山野美々子がジェルの追加を行う。
「もっと手首で抜くの!そう、スピードは落とさない!」
ゆぃゆぃ先輩の声は鋭いが、的確だ。汗が額を伝い、背中を流れる。
――3分後。
患者の口から、長い吐息が漏れ、モニターの警告音が一つ止まった。
器具内のタンクには、規定量を超える排出物が溜まっている。
「内圧、1.4リットルに低下!脈拍安定!」
お美々の声に、私の肩から一気に力が抜ける。
「よくやったわ、あいかちゃん」
ゆぃゆぃ先輩が短く言い、患者の手をそっと握った。
「もう大丈夫。スッキリしたでしょう?」
患者は微かに笑い、意識を失ったまま安静体位に戻される。
処置後、私は手袋を外し、深呼吸する。ジェルと精液の混じった匂いが、
鼻の奥にこびりついて離れない。
ゆぃゆぃ先輩は私の肩を叩きながら、低く言った。
「覚えておきなさい。現場じゃ、迷う暇が一番の敵。
男は詰まれば死ぬの。抜けば生きる。それだけよ」
私は頷いた。その言葉が、これから何度も私を動かすことになる――そう直感していた。