第12話 「増幅剤の影」
夜勤明けの休憩室。白色灯がやけに冷たい。
紙コップのコーヒーは、湯気を立てたまま手付かずだった。
昨夜の症例──バイタル圧5.0域。
あんな数値、教科書にもシミュレーションにもない。
お美々が震える指先を見つめる。
「……まだ手が震えてる」
「当然よ。普通の排圧じゃなかった」
私の声も少し掠れていた。
そのとき、静かにドアが開く。
ゆぃゆぃ先輩。手には厚いファイルと透明カプセル。
薄い青の液体が揺れている。
「これ、見覚えある?」
テーブルに置かれた分析結果。
昨夜患者の体内から検出された成分──
B-9に酷似したバイタル調節物質。
だが混ざっている。見慣れない化合物。
「……P-ゼロ三四?」
お美々が紙を握る手を強める。
「通称“増幅剤”。B-9の作用を倍化し、
発症潜伏時間を極端に短縮させる。
試験段階で廃棄されたはずのもの。」
「……誰かが持ち出した?」
「そう。しかも流通させてる。」
先輩の声が低く刺さる。
「狙いは?」
「まだ分からない。でも──」
視線が私たちを射抜く。
「この病棟が狙われているのだけは確かよ。」
ちょうどその時、院内放送。
《救急搬送、コードF-6。意識混濁、急激な下腹部膨張》
全員立ち上がる。
「行くわよ。迷う暇はない、現場判断で排圧。」
救急区画に到着。ストレッチャーが震えている。
患者は蒼白というより灰色。
布越しでも分かる、局所圧の暴走。
「バイタル圧4.7域……速すぎる!」
「流路確保、泣くな、観察しろ。」
私は即座に器具を装着、変性ジェル塗布。
塗布直後、違和感。
神経伝導波形が粘つくような乱れ方。
「これ……増幅剤反応!」
「やっぱり。」
先輩が骨盤圧補助に入る。
「第一タンク満杯で即切替!流量は限界まで!」
「はいっ!」
ジェルが浸透し神経刺激パッドが作動。
排圧ユニットの吸引音が低く唸る。
第一タンク満杯──3分。
通常の三倍の速度。
それでもゲージはわずかしか下がらない。
「心拍、160……リズム乱れてきてる」
「心臓が先に落ちる……!」
「なら落ちる前に排圧する、止める前に通す!」
緊急の微量循環安定剤投与。
私は手首感覚で吸引圧をミリ単位調整。
血圧波形と筋反射を同時監視しながら排出率を維持。
「喉、乾く……水……」
患者が擦れた声で呟く。
眼球が震え、光を追い切れていない。
「意識保って!戻ってこい!」
お美々の声が震えながらも力を持つ。
20分後──
バイタル圧1.8域。
アラーム消失、呼吸安定。
「……ここまで下がれば持つ」
先輩は手袋を外し捨てる。
「確信したわ。増幅剤は意図的。市場に流れてる。」
廊下に出ながら話す。
「出所を突き止める。それが最優先。」
私たちは頷き合う。
角を曲がった瞬間、背後から低い声。
「……止められるなら止めてみろ」
反射的に振り返る。影はもういない。
けれど声だけが胸の奥に残った。
これは医療じゃない。
市場、利権、そして命の取引。
愚かな病を利用した、誰かの“計画”。
脈拍より速く、恐怖より深く、
怒りが胸を満たした。
「絶対に止める」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
その瞬間──救急ベルが再び鳴る。
戦場は、休む暇を与えてくれない。




