第11話 「暴走する夜」
その夜、救急口は異様に静かだった。
搬送ゼロ。それは医療の現場では逆に不吉だ。
静寂は、嵐の前触れだと誰もが知っている。
低いチャイムが院内に響く。
《至急、救命区画C-2へ。症例コード:不明》
不明──既存の疾患分類に該当しない。
頭の奥がじわりと冷える。
B-9関連の想定外変異。直感がそう叫んだ。
C-2へ駆け込む。
防護布で覆われたストレッチャー。
布越しにも、脈動する内部圧が不気味に伝わる。
「搬送者は?」
「不明です。入口に置かれていたと……」
助手の声は震えていた。
ゆぃゆぃ先輩が布をめくる。
二十代前半の男性。皮膚発赤、全身血管怒張、
骨盤周囲の容積は規定域を大きく逸脱していた。
皮膚表面が張力限界の光沢を帯びている。
「……B-9反応。しかも投与後“数時間以内”」
先輩の声は氷のように鋭い。
モニター接続──バイタル圧5.0域。
「誤作動?」
「違う。本物の数値。」
圧5.0は臓器崩壊リスク極限域。
考える暇はない。
「排圧開始。初期ジェルじゃ持たない、変性ジェル30%。」
「了解、亜冷却ライン開放!」
冷却生体ジェルが皮下神経を覆い、
細胞間液の温度が急速に降下する。
パルス刺激装置が神経反射波形を制御し、
排圧ユニットが吸引陰圧を安定化させる。
「流量最大。陰圧臨界ギリギリで保持。」
「タンク切り替え準備。詰まらせないで!」
第一タンク、満杯。
にもかかわらずゲージはほぼ変化なし。
「おかしい……通常排出量の三倍でも落ちない……!」
「外部刺激剤。B-9増幅剤、混入されたわね。」
先輩の声が低く冷える。
「放置すれば組織破断よ。」
吸引、抑制剤微量滴下、骨盤圧調整。
患者は意識の縁で呟く。
「……売れる……金になる……データ……」
震えるお美々の手を、先輩が鋭く制した。
「泣くのは後。今は命。」
私は吸引圧を微調整しつつ、
排出口ラインの抵抗をミリ単位で調節する。
わずかなずれで血圧が暴走する。
指先の感覚が研ぎ澄まされ、電子音と呼吸音だけが世界を支配する。
30分、40分──
バイタル圧2.2域まで降下。
アラームが一つ、また一つ消える。
お美々が崩れ落ちる。
「助かった……?」 「今はね。」
先輩は手袋を外しながら目だけで指示する。
「搬送経路。身元。裏を洗う。これは偶発じゃない。」
処置室を出た瞬間、廊下の先にフードの影。
視線を感じた途端、影は角を曲がり消えた。
冷たい汗が背を伝う。
誰かが、我々の排圧技術と患者を狙っている。
馬鹿げた病だと笑われても、その裏に潜む“金”と“悪意”は真剣だ。
「追われてる……」
思わず呟いた声は震えていた。
だが、恐怖より強い感情が胸に広がる。
──誰も殺させない。
ここは笑い話の世界じゃない。
命を奪おうとする悪意があるなら、私たちが立ち向かう。
再びサイレンが近づく。
戦場は終わらない。




