第10話 「追いかけてくる症状」
退院から二日。
拓真は「もう倒れない」と胸を張って病院を出た。
だが、その自信の根拠は不明だった。
体内排液制御疾患は、ストレスや体温変動、睡眠不足だけで再燃する。
医師からも厳命されていたはず。
だからこそ、胸騒ぎは消えていなかった。
――あの時の波形、排圧反応。あれは“ギリギリ保てた症例”だった。
数日で再燃してもおかしくない、そう身体が覚えていた。
その夜。救急フロアに、聞き慣れた声が響いた。
「お美々ぃーー!!」
振り返ると、上半身裸の拓真がストレッチャーで搬送されてきた。
皮膚発赤、発汗亢進、胸郭の上下が荒い。
そして防護布越しでも分かる下腹部の強い脈動。
皮膚温は異常に高く、血管が浮く。呼吸は浅く、胸郭の動きが不規則だ。
中枢と自律系が同時に暴走している。嫌な汗の質。これは“破綻前”。
「まさか……再燃っ?」
お美々が駆け寄り、顔を蒼白にする。
「昨日までは元気だったのに、さっき急に……!」
ゆぃゆぃ先輩がカルテ端末を受け取る。
「バイタル圧4.1域。退院後2日でこの数値は異常。」
私も血の気が引いた。
「B-9抑制剤、まだ体内残留があるはずなのに……?」
処置室へ移送。
搬送中、私は彼の胸郭運動を横目で読む。
吸気の途中で筋が痙攣する――反射性収縮。
血中の各値をモニターが吐き出すたび、胸が締まる。
酸素投与、静脈ライン確保、排圧パラメータ連続測定。
しかし数値はさらに跳ね上がる。
「4.3……4.5……!」
バイタル圧4.5域=臓器崩壊リスク目前。
末梢血管抵抗が異常に高い。全身が“破裂直前”の弦みたいに張っている。
「抑制剤先行投与します?」
「ダメ。急落は循環ショックの危険。まず段階排圧。」
ゆぃゆぃ先輩は迷いなく指示した。
その声の奥に、微かな震え。失敗の記憶を抱えた人の声だ。
お美々は拓真の手を掴む。
「お願いだから意識保って!置いてくなんて許さない!」
彼女の指は強く握りすぎて白くなっている。放せば崩れるのを、必死に止めている。
拓真は苦笑し、酸素マスク越しに息を漏らす。
「……声でかい……けど、安心する……」
波形が乱れれば危険域へ転落する。
私は呼吸リズムと筋反射を読み、
冷却生体ジェルを患部神経周囲へ塗布、
神経抑制パッドで反射性収縮をコントロールした。
指の角度は1度単位、圧は1秒を10に割る感覚。
“力”じゃない、方向と順番で救う。
「いきます、部分排圧開始!」
排圧ユニットが作動し、
低出力の可変陰圧とパルス制御で
溜まった体内排液を少しずつ逃す。
ジェルの冷却波が皮下を走り、
血管の浮きがわずかに収束する。
端末光は黄→緑へ、だが波形は油断できない小刻みな揺れ。
理性と臓器が綱引きしている音が、心の耳で聞こえる。
──5分
──10分
「まだ……波形落ち着かない……!」
先輩が横から手技補助に入る。
骨盤周囲の圧勾配を再調整し、
排出導管の“角度と開放閾値”を正確に操作。
力じゃない、神経刺激の“逃がし口”を作る指。
救命は、押す瞬間より引かない瞬間のほうが多い。
「押すな、引圧誘導……はい、そこ!」
汗が額から滴り、
端末の光が青へ変わる。
排液速度は制御下、危険音は止む。
胸の奥が、かすかにほどける。
20分後。
バイタル圧は3.0域へ低下。
呼吸数、脈拍、筋反射、全て安定へ。
拓真の眼球運動が戻る。呼吸に“生きたい”が乗る。
「……助かったの……?」
お美々の声が震える。
「今はね。ただ原因を突き止めないとまた来る。」
ゆぃゆぃ先輩も息を吐く。
「B-9作用延長?いや、それだけじゃない……」
先輩は手を見た。震えてない。でも温度が低い。気持ちを凍らせて守っている。
そこに研究医が飛び込む。
「やはり。B-9のデータ、外部へ流出しています。
市販化狙いの非合法サプリが市場に……患者の体質を刺激する成分が混入された可能性が高い。」
「なにそれ……ふざけんな!」
怒りに手が震えるお美々。
その震えは、恐怖と怒りと後悔が混ざった色をしていた。
先輩はその肩を支えた。
「だから守るのよ。医療者として、仲間として。」
拓真はマスク越しに笑う。
「大げさだって……俺、死なねぇよ……」
「死ぬの!次は本当に!」
お美々の叫びは涙混じりだ。
その声に、夜勤フロアの空気が一瞬止まった。
私はその光景を見ながら決めた。
B-9を狙う影を絶対に許さない。
愚かな薬害で誰も死なせない。
あの日の先輩の経験を、繰り返さない。
外ではまた救急車のサイレン。
私たちの戦場は、今日も息をつく暇がない。
でも、まだ動ける。怖くても、まだ手が動く。




