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第9話 「止まらない人」

 あの夜から三日。

 拓真は集中管理室に入ったままだが、心肺は安定し、腎機能も想定よりは持ちこたえていた。

 しかし――主治医の報告は妙な言い回しだった。


 「問題は……あれですね。例の“内圧過剰”がまだ収まらない」

 「内圧過剰……?」と私が首を傾げると、医師はカルテを指で叩く。

 「精液過多症候群。生殖系の内分泌異常で、常時高負荷状態。B-9で全身の血流が急激に回復した結果、反応がさらに増幅してしまった」


 ……つまり、簡単に言えば“止まらない”。

 しかも患者は元々、この症状で救急搬送歴が何度かあったという。

 あまりにもお馬鹿な理由なのに、放っておけば臓器への負担で命に関わるのだから笑えない。


 処置室でのモニター回診。

 ベッドの拓真は、全身に点滴ラインをつけられながら、なぜか余裕の笑みを浮かべていた。

 「おぉ……美々……」

 お美々は顔を真っ赤にしてベッド脇に立ち、「しゃべるな!動くな!」と怒鳴る。


 ゆぃゆぃ先輩がカルテを見て呆れた声を出す。

 「あなた……前にも同じ症状で入院してるわね?」

 「ま、まぁな……」

 拓真は笑って肩をすくめた。

 「でも今回は、マジで死ぬかと思った。美々がいてくれて……」

 「黙れって言ってんの!」

 お美々の声が半分涙声になる。


 医師が私たちに説明する。

 「B-9の効果が切れる前に、抑制剤を投与する必要があります。ただし、抑制剤は腎臓にも負担をかけるので、タイミングは慎重に」

 「つまり、間違えると……?」

 「腎不全で再び危険域です」


 現場はピリついた空気になったが、当の本人は呑気に「なぁ、美々、俺退院したらまた――」などと言っている。

 お美々はついに怒鳴った。

 「もう!アンタは一生入院してなさい!!」


 その後、ゆぃゆぃ先輩と私はモニター室で抑制剤投与のタイミングを検討した。

 「心拍、血圧、内圧の波形……B-9が切れかける瞬間を狙うのが理想」

 「でも切れすぎると、また呼吸停止リスクが出る」

 先輩は指で机をトントンと叩きながら考え込む。

 「こいつ……いや、患者さん、元々の症状が強すぎて波形がブレるのよね」


 「つまり、完璧なタイミングなんて存在しない?」

 「そう。だから“外さない”ことが最優先」


 夜勤明け前、チャンスは突然やってきた。

 モニターの内圧波形が下がり始め、心拍が安定域に入った。

 「今!」

 私たちは処置室に飛び込み、抑制剤を静脈からゆっくり注入した。


 数秒後、拓真が大きく息を吐き、顔色がスッと落ち着く。

 モニターの波形も滑らかになり、内圧値は正常範囲へ降下。


 「……あぁ……楽になった……」

 そう言って彼は静かに目を閉じた。

 お美々はその横で、肩の力を抜きながらも、まだ涙ぐんでいた。


 処置後、休憩室でゆぃゆぃ先輩が笑った。

 「なんだかさ、すごく命がけでくだらないものを相手にしてる気分」

 「でも、あの人にとっては命の問題ですから」

 私はコーヒーを一口飲んで答える。

 「そうね……救命ってそういうものよ。本人にとって大事なら、それがくだらなくても真剣にやる」


 お美々がタオルで目をこすりながら入ってきた。

 「……ありがと。あんたたちがいなきゃ、拓真は……」

 ゆぃゆぃ先輩は肩をすくめた。

 「礼はいいから、あんたも少し休みなさい」


 それから、抑制剤投与後、私たちはそのまま継続監視に入った。

 拓真の胸部には心電図、右前腕には三路ルート、左腕には観血式動脈ライン。

 尿量バッグ、末梢冷感、四肢の毛細血管再充満、全て1分単位で記録する。

 内圧値はゆっくり下降し、2.1→1.6→1.2と安定域へ向かう。

 暴走していた内分泌信号が抑え込まれ、交感神経優位から副交感へ移行、

 心拍波形は尖った山から滑らかな谷に変わり、呼吸補助の換気音も規則を取り戻していく。


 腎指標も重点的に確認する。

 尿量の初期増加は、B-9による血管拡張反応の残存影響。

 その後の徐々な減少は抑制剤作用による糸球体濾過率改善のサイン。

 ただし油断はできない。虚血性腎障害は、回復初期の数時間で再燃しうる。

 私たちは排液バランスを計算し、補液速度を0.5ml/kg/h単位で調整。

 血漿量過多を避け、腎静脈圧を過度に上げないギリギリの範囲を攻めた。


 お美々はベッドサイドで、拓真の指先をそっと包み、

 爪床の色を確認しつつ、微かな手の温度の変化に耳を澄ます。

 彼の呼気は安定し、胸郭の動きは深くゆっくり。

 筋緊張が解けた肩の沈み方、眠るような静かな顔。

 ただの疲労ではなく、過負荷から解放された生命反応。


 ゆぃゆぃ先輩はモニター前で指を組み、黙って波形を追っていた。

 表情は冷静。だが眉間にはわずかな力が残る。

 “この反応、次も同じとは限らない”

 そう言わずとも、呼吸のリズムの張り具合でわかる。

 緊張を抱えた医療者の呼吸は、静かでも揺れるのだ。


 私は患者データを入力しながら、胸が少しだけ軽くなる。

 ギリギリの命を、またひとつ繋いだ――

 だがその実感は、喜びというより、

 “崩れ落ちずに踏ん張れた”という薄氷の余韻に近い。


 室内に機械の制御音だけが響く。

 無数の数字と波形が、命の重さを無造作に示し続ける。

 忙しさの裏に潜む静寂は、医療者だけが知る夜明け前の気配だった。

 私は手袋を外し、額に付いた汗を袖で拭う。

 その手は少し震えていたが、止まってはいない。


 外は夜明け前の薄青い光。  くだらないようで必死な戦いは、今日も終わらない。

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