奉納試合1
意外なことに勘次郎は、千代が奉納試合に行くことを
すんなり許した。
「え、行っていいの?」
「おのぶさんも見に行くということだし、一緒に居させてもらいなさい。」
「父さんは行かないの?」
「ああ。見に行きたい気持ちは勿論あるが…
その代わり、当日はいつも着ている薄紅の着物で行ってくれ。」
勘次郎が着物を指定してきたのには訳があった。
しかし、この時の千代は、奉納試合の許可があっさり下りたことに対して驚いていた。
故に、普段、服装に無頓着な勘次郎が、着物を指定したことなど気にも留めなかったのである。
***
奉納試合当日の朝。
千代はその時になって、勘次郎の命令に少し疑問を抱きながら、薄紅色の着物に袖を通した。
勘次郎は出かけた後である。
千代の家から高幡不動までは、四半刻以上かかる。
いつも通り身なりを整えてから早めに家を出ようとした。
「あんた、その格好でいくの?」
その様子を見ていた母が声をかけてきた。
「え?うん。よく分からないけれど、この着物を着ろって父さんが。」
「あらやだ。あの人はまったく…
1番重要なことを何も言わないんだから…」
心底呆れた、というように、千代の母はため息をついた。
「え?なに?どういうこと?」
「いいから、ちょっとこっちに来なさい。」
そう言うと、千代を再び鏡の前に座らせた。
「ごめん母さん、ちょっとあんまり時間がないんだけど…」
「今日は、お見合いも兼ねてるのよ」
化粧道具を取り出しながら、母が言う。
千代は言葉を失った。
「…どういうこと?」
しばらくして、やっと声を出すことができた。
頭の中は疑問だらけである。
千代は、奉納試合を観に行く予定なのだ。
それが突然、見合いだなんだと言われても、理解が追いつかないのが普通だろう。
いつの間にか、千代の顔に何かを塗り始めていた母が、ため息混じりに話し始めた。
「父さんが選んできたお相手に、千代を直接見てみたいって言われてねえ。
会って話をする前に、遠くからでもいいから、まずは一目見てみたいと。
ちょうど本人が、今日の奉納試合に出るって言うので、ならばそこに来る娘を見てくれっていう話をしたらしいのよ。」
「…つまり、私の品定めをしたいということ?」
困ったように眉を下げる母が、鏡越しに見える。
父が着物を指定した理由が分かった。
試衛館に付いている娘で、薄紅色の着物を着ていると伝えておけば、女人の少ない奉納試合の場では、一目でどれが千代だか分かるという寸法だ。
「まあそんな珍しい話でもないからねえ。事前にお相手の事を知っておきたいっていうのは。」
「そうかもしれないけど、だったら私にもお相手の事を教えてくれないと!」
あまりにも不平等である。
「だから、てっきり父さんが伝えてると思ったんだよ。
…千代があまり乗り気じゃなさそうだから、言いづらかったのかねえ。
奉納試合に行くのをやめるとか言われるのが、嫌だったのかも。」
まんまと父の策略に嵌められた訳である。
道場面子にはすでに観戦に行くと伝えており、
のぶともどこで落ち合うか、話を通してしまっている。
今さら行かない、というのは世話になっている人達を裏切るようで、千代にはできない。
「はあ…分かった。それで、お相手はどういう人なの?どこの道場の所属で出る予定なの?」
「それが、母さんもよく知らなくって…
名前はせいじゅうろう?って聞いた気がするけど。」
名前だけ分かったところでどうしようもない。
「はあ…」
普段化粧をしない千代である。
薄く白粉を叩かれ、紅を引かれた自分の顔が鏡の中に見え、
さらに気持ちが重くなった。
***
身支度は、化粧だけでは終わらなかった。
着物の下に着る襦袢も色柄物に変えさせられ、
髪には簪も挿された。
案の定、千代が到着した頃には、すでに1回目の試合が終了しており、2回目の試合がまさに行われようとしているところだった。
境内はやはり人で賑わっていた。
男ばかりの観衆の中に、見慣れた鶯色の着物を見つけると、千代は声をかけた。
「のぶさん!」
「あら千代ちゃん!遅かったわね!
…あら?なんか今日雰囲気違う?」
「すみません、諸事情で…」
普段ならもっと追及して来そうなものだが、
あっさりとした突っ込みで終わった。
のぶの隣にはもちろん、彦五郎もいる。
「試衛館はどうですか?」
「一回戦は楽勝だったわよ。先鋒から中堅まで全員勝って終わり。」
奉納試合の規定はこうだ。
まず、各団体5人対5人で、先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の順に、1対1の個人戦で1本勝負を行なっていく。
個人の勝ち負けを合算して、勝ち数が多いほうの団体がその試合の勝者となる。
そのため、予定している5回の個人戦のうち、3人が勝った時点でその試合の決着がついてしまうというわけだ。
試合に参加する道場は8団体あり、組み合わせは事前に定められている。
勝った団体が、勝った団体と次の戦いを組まれていくという、いわゆる勝ち抜き戦である。
一回戦に勝利した試衛館は、残り2回、試合に勝ち続ければ優勝といった具合だ。
複数団体が参加しているため、2試合目までは境内での野試合、最終戦のみ本堂の中で行われる。
「試衛館の面子の順番は?」
「先鋒が総司くんで、次鋒が源さん。
中堅が歳三で、副将が…ええっと…」
「副将が斎藤一くんと言って、江戸の試衛館からわざわざこちらに来てくれた青年だ。
で、大将はもちろん勇さん。」
名前を失念していたのであろうのぶに代わって、
彦五郎が答えた。
(斎藤一…どこかで聞き覚えがある名前だな…)
やはり新選組にいた人間だろうか。
軍医、もとい藩医と共に新選組に出入りしていた千代であるが、
接点があったのは怪我や病気をした隊士のみである。
また、一度顔を合わせた程度では記憶に残っていない可能性も高い。
ちなみに、総司を覚えていたのは、病気の介抱を何度かしたことがあり、印象に残っていたためだ。
時々、千代は時間溯行前の自分を恨む時がある。
もっと歳三と、故郷や隊士についての会話をしておけばよかったと。
「あっ、来たきた!」
隣にいるのぶが呟く。
休息をとっていたのだろう。
試合に出場する試衛館の面子が、今回の試合のために設置された天幕の中から出てくるのが見えた。
いよいよ、試合の始まりである。