打ち水
「紅白試合をやろうと思う」
ある晩のこと、夕餉の終わりに千代が茶を出しに行くと、勇や食客達に向かって、周助がそんな話をしていた。
いつになく周助の神妙な声に、千代は障子を隔てて、部屋の中に入る時期を伺った。
「紅白試合…ですか。それは、試衛館の中で2組に分かれて対戦するということですか?」
勇が周助に問いかけた。
「ああ、そうだ。お前に任せている、出稽古先の門人達がしっかり成長しているかどうか、確認したい意図もある。」
周助が回答すると、少し間が空いた。
勇がどんな表情なのかは、千代には分からない。
「…ということは、出稽古先の…多摩周辺からも人を集めるということでしょうか?」
「そうしようと思っている。江戸まで、どれくらいの者が来れるかどうかは不明だが、とりあえず明日の出稽古から各所で話をして、みんなの反応を見て欲しい。」
「分かりました。しかし、どうしてまた急に…」
「勇。私ももういい歳だ。まだまだ体は鈍っちゃいないが、元気なうちに隠居して、残りの人生や…そろそろ産まれてくるであろう、孫との時間を過ごすのもよいかもしれんと、最近は考えている。」
「それはつまり…」
「紅白試合は、出稽古組が紅、江戸組が白で行う。
紅組が勝ったら…勇、お前にこの道場の跡を継いでもらおう。」
部屋の中がどよめいた。
「ええ、ついに勇さんが!?師範だって、まだまだ全然元気じゃないっすか!」
新八の動揺する声が聞こえる。
「まだ跡を継がせると決まったわけじゃない。紅白試合で我々が勝ったら、この話はまた延期だ。
…お前たちは、私を師範に引き留めてくれるよう、一生懸命戦ってくれ。」
「…分かりました!」
新八は威勢よく返事をした。
「勇さんと敵同士かあ。やだなぁ。」
左之助がぼやく。
「出稽古先の人達って、俺会うの初めてかも!楽しみだなあ。」
「…舐めていると、きっと痛い目に合うぞ。」
無邪気な平助を、一が諭している。
(試衛館でやるのかなぁ…?)
そうなると、千代も色々と手伝うことになるだろう。
奉納試合の際は、道場名の刺繍をしたが…なかなか大変だった。
ーーできれば、あれはやりたくないな、と内心考えている。
一同が落ち着きを取り戻した頃合いを見計らい、千代は部屋の障子を開けた。
***
「千代、聞いたか?再来月に試衛館内で紅白試合をやるんだってさ。」
次の日、家事の合間に庭先で打ち水をしていると、
稽古終わりの新八に遭遇した。
(…再来月になったのか。)
今は文月。まさにこれから暑さが増してくる季節である。
確かに、遠方から人を呼ぶのであれば、少し暑さが和らぐ、再来月あたりが適当であると千代は思った。
「昨日、夕餉のときにちらっと聞こえてきたよ。」
割と最初から最後まで聞いていたが、盗み聞きしていたような後ろめたさがあり、そうは言えなかった。
「千代は、もともと出稽古先の見学に行ってたんだろ?どんな奴らがいるんだ?」
「どんなって…うーん。うちの父も通ってるし、宿場町の名主さんとかもいるし…」
千代は悩みながら、新八の立っている方を避けて、水を撒いた。
「なんだ、おっさんばっかりか?」
「いや、若い人ももちろんいるよ。でも、出稽古先っていくつかあるんでしょう?」
勇や総司は、長い時は半月ほど多摩に出ずっぱりである。彦五郎宅以外にも、複数の拠点で稽古を行っていると聞いている。
「私が見学に行っていたところだけでも色んな人がいたから、一括りにこうとは言えないと思う。」
「そうかぁ。」
新八は残念そうに言った。
「…ところで。」
千代は視線を下げた。
「その格好、どうにかならないの?」
時間溯行前から、男所帯に出入りをしていた千代である。
怪我人の手当もできるし、医術の心得もある。
今更、男の裸を見てどうということはないが、
最近の新八は上裸が標準仕様になりつつあった。
今時分からこの状態だと、来月頭には褌一丁で屋敷内を歩きそうである。
「いやー、暑くてさあ…そんな見苦しいものでもないと思うんだけど、どう?」
新八は冗談交りに両腕で力こぶを作ってみせた。
確かに、鍛え上げられた筋肉隆々の体は逞しく、美しいと言えるだろう。
しかし…
「見苦しくはないけど、暑苦しい。」
千代はバッサリと言い放つ。
「なんだよー、つれないなぁ。」
新八は不貞腐れた。
歳が同じであることもあり、この数ヶ月で、新八とは軽口を叩けるほどの仲になった。
彼自身が気さくな気質であることも、その要因だろう。
「新八くんにも水をかけてあげるよ。きっと涼しいと思う。」
千代は、手に持っていた柄杓で少しだけ水を掬い、新八の方に撒いた。
「おっとぉ、やってくれたなぁ?ちょっとそれ貸せ!」
「やだーー貸しませんーー」
千代は柄杓を奪おうとする新八から逃げ回る。
ゲラゲラと笑い合う2人の声が、試衛館の庭先に響いていた。
***
ほどなくして、夕餉の準備をしていると、周助に呼び出された。
(遊んでいたのがバレたかな…?)
新八と戯れていたことを咎められるのかと、
千代は少し緊張した。
「もしかしたら、もう誰かから聞いてるかもしれないが、再来月に試衛館で試合を開催しようと思っている。」
周助の言葉に、ホッと胸を撫で下ろす。
「それで、千代ちゃんには申し訳ないんだが…」
また刺繍かと思い、千代は身構えた。
「紅白の、襷を作ってもらうことは、可能かな?」
「襷…ですか?」
周助は頷く。
「今回は試衛館内の試合だから、対戦者同士がそれぞれ紅白の襷を着けて、勝敗が分かるようにしようと考えているんだ。
それぞれ一本ずつ作ってもらえれば、試合ごとに使い
回して事足りるとは思うんだが…」
よかった、と千代は思った。
襷程度のものであれば、それほど大変ではない。
1日もあれば十分である。
「分かりました。作っておきます。」
「ありがとう。
それから、当日は試衛館で試合を行うことになる。
色々と世話をかけるかもしれないが、よろしく頼むよ。」
まだ暑さが残る中での試合となるだろう。
水をしっかり用意しておかなければ、と千代は思った。




