試衛館
つねは、豪胆な勇とは真逆の、物静かで繊細そうな女性であった。
試衛館に到着した千代を、青白い顔で出迎えてから、
近藤家の中を案内する際、ずっと口元を手拭いで抑えていた。
腹はまだそれほど膨れていないようである。
(悪阻が酷いんだろうな…)
時間溯行前、奉公先の奥方も同じように悪阻に苦しんでいた。
悪阻に効果のある薬はない。
悪阻が続く期間や重さは人それぞれだが、とにかく気分が悪く、吐き気が収まらなくなるという。
特に特定の匂いーー食べ物の匂いで症状が出る場合が多く、そうなると食事を取れなくなってしまうのだ。
元気な子供を産むためには、母体が健康である必要がある。薬でどうにもできない以上、食べられるものを食べ、体を休めるのが最善だ。
千代は、一刻も早く、つねを里帰りさせてやらねばと考えた。
男には悪阻の辛さが分からない。周助や試衛館の面々の人の良さは千代も知っているが、男ばかりの環境の中で、つねが無理せざるを得ない状況になっていることは明白であった。
「千代ちゃん、ちょっとこっちに来れるかい?」
つねから一通り仕事の説明を聞き終わると、周助に呼ばれた。
連れて行かれた先には、男が4人並んでいた。
そのうちの1人には見覚えがある。
奉納試合に出ていた、斎藤一という青年だ。
千代と目が会うと、ペコリと頭を下げた。
「これがうちの食客だ。斎藤くんは、一度会ったことがあるかな?
斎藤くんの隣が、永倉新八くん、その次にいるのが原田左之助くん、そして藤堂平助くんだ。」
周助が説明をする。
いずれも聞き覚えのある名前に感じられた。
おそらく、全員が新選組の隊士になるであろう人物だと、千代は思った。
「今日からお世話になる千代と申します。よろしくお願いします。」
千代は深々とお辞儀をした。
「千代って呼んでいいのかな?俺たち、多分同年代だろ?」
永倉新八が口を開いた。
肩幅が広く、がっしりとした体つきであるが、
愛嬌のある顔で親しみやすさを感じる。
「今年で19になります。」
「ほらな、左之。やっぱり、同い年だ!」
隣の原田左之助を見て、嬉しそうに言う。
佐之助は新八に比べると、少々華奢に見えるが、
なかなかの美丈夫であった。
「新八さんと左之助さんも同い年なんですか?」
「いや、僕はお二人の一つ下です。
さっき遠目に見かけて、18か19か、きっと同じくらいだよねって話してたんだ。」
佐之助は丁寧に答えた。
「俺らのことは、気軽に呼び捨てで呼んでもらって大丈夫だからな。
一や平助に至っては、まだガキんちょだし。」
「ガキっていうな!」
新八の言葉に、平助は不服そうに頬を膨らませた。
平助はかなり幼く見え、
体格からしても、まだ成長途中なことがよく分かった。
「ちなみに、勇さんと総司くんは…?」
到着してから姿が見えず、気になっていたことを千代は尋ねた。
「あー、2人には最近ずっと、出稽古を任せていてね。勇はもうじき帰ってくると思うが、総司は実家が近いから、実家から通ってきたり、うちに泊まっていったりだよ。」
周助が答える。
てっきり、総司も食客としているものだと思った千代は、意表をつかれた。
何かあれば総司に相談しようと思っていたが、そういう訳にはいかなさそうだ。
そんな心配を察したのか、周助は付け加えた。
「ここにいる4人は、とにかく千代ちゃんの好きに使ってくれて大丈夫だから。
力仕事以外でも、指示を出せばそれなりにちゃんと動ける奴らだ。
…お前たちも、千代ちゃんが困っていそうな時は、積極的に手伝ってあげてくれ。」
周助の言葉に、4人は頷いた。
(とにかく、いい人達みたいで良かった。)
千代は素直にそう思った。
***
千代が来てすぐに、つねは里帰りすることとなった。
実家の家事は千代の母が行い、どちらかというと千代は家業の手伝いが主であったが、時間溯行前に武家屋敷で奉公をしていた経験から、家事全般の基本は心得があった。
何がどこにあるかが分かれば問題ない。
あとは、物量の問題である。
屋敷や道場の掃除は、食客達が日替わりで行っているということなので、そのまま継続してもらうことにした。
台所仕事はそれほど苦ではない。
朝に大量の米を炊き、それを3食に分けて出す。
そこに、朝は汁物、昼は主菜といったふうに料理を作り足して、夜は漬物やその日の残り物がおかずになる。
人数が多くとも、分量を変えればいいだけで、失敗することはない。
問題はーー
「…はぁ」
籠に入った洗濯物を見て、千代は思わずため息をついた。
まだ肌寒い季節であるものの、稽古では汗をかくということで、毎日最低6人分の稽古着を洗わなくてはならない。
洗い替えが少ないため、溜め込む訳にもいかず、尚且つしっかり洗って乾かさないと、嫌な臭いになるという。
実際、食客達に洗濯を任せた際には、雑巾のような悪臭を放っていたそうだ。
千代に気を遣ってかどうか、褌までは出されていなかったが、そのほか襦袢などもあると、これがなかなかの重労働なのである。
「あれー?千代さん?」
井戸端で桶に水を汲み、その中で稽古着を洗っていると、後ろから聞き慣れた声がした。
「総司くん!」
振り返ると、そこには総司が立っていた。
背中には行李を背負っている。
「多摩から戻ってきたの?勇さんは?」
「若先生は、寄り道するところがあると言うので、僕だけ先に。…洗濯中ですか?」
総司は赤くなった千代の手に視線をやった。
「手伝います。」
「いや、戻ってきたばかりなのに悪いよ。
私は大丈夫だから、ゆっくり休んで?」
「どうせ僕、この後やることないんで、暇つぶしさせてくださいよ。1人より2人の方が早いでしょう?」
総司はその場に行李を下ろすと、桶を挟んで千代と向き合った。
「この中のやつ、洗っていけばいいんですね?」
「…ごめんね、手伝わせちゃて。」
「暇つぶしですってば。
…そういえば、江戸で千代さんと話すのは初めてですね。なんだか変な感じだなあ。」
水の中でじゃぶじゃぶと稽古着を揉みながら、総司は言った。
言われてみれば、総司と最後に会ったのは彦五郎の道場である。
まだ数日しか経っていないが、すでに多摩が懐かしいような気分になった。
「…そうだね、これからよろしくね。
って言っても、総司くんは実家からここに通ってるんだっけ?」
「そうですね。まあ、日中はほぼ試衛館にいますし、出稽古について行ったりもするので、なんとも言えない感じですけれど。
でも、これからは千代さんがいるから、ますます試衛館に入り浸りになっちゃうかも。」
総司は悪戯っぽく笑った。
「私も、総司くんがいてくれると、何かと心強いよ…」
「あれ?食客の皆はどうでした?」
誤解を与えたかと思い、千代は慌てて言った。
「みんなすごくいい人たちだと思う!
けれどほら、総司くんのほうが顔馴染みだし。」
ならば勇も、という話にはなるのだが、
勇は歳が上であることや、新選組局長であった時間溯行前の記憶もあるため、少し構えてしまうのが本音である。
その点、総司は程よく気楽に接することができるのだ。
洗い終えた稽古着を絞ろうと、千代が苦戦していると、さりげなく総司が代わった。
「千代さんなら、きっとすぐ慣れますよ。僕のこと頼ってくれるのは嬉しいけど。」
稽古着をギュッと絞って総司が言う。
千代がやるよりも、しっかり水が切れていた。
あとは試衛館の裏に干して乾かすだけである。
「…ありがとう。本当にすぐ終わっちゃった。」
「こういうのは、誰かと駄弁りながらやるのが1番ですよ。」
総司はにこにこと笑いながら行李を背負い直す。
(しっかりしてるよなぁ。)
千代は素直にそう思った。
この歳で勇と一緒に出稽古に行っていることもそうだが、何をやらせても総司は有能なのである。
千代は洗い終えた洗濯物を抱え、試衛館に向かう総司の後ろをついて行った。




