第四話 生物学上の父親
今日の朝ごはんはトーストに目玉焼きを載せたもので、コーンスープがついていた。つまり、いつも通りの平凡な朝食だった。ただ、いつもと違うのは、明らかにお母さんが上機嫌であることで、小さな鼻唄まで聞こえてくるほどだった。
かくいう僕もそうだった。算数の宿題をやる気が起きず、机の上に開きっぱなしにしていた。何が面倒くさいって、答えなんて見ればすぐわかるのに、その計算方法だけではなく、考え方までドリルに書かなければならないことだ。小数の足し算で、いちいち、『足すと繰り上がって一の位に1が足されるから』と穴埋めしなければならない苦労がわかるだろうか?
加えて、この身体だと、手が思うように動かせないのだ。小学生特有の、あの大きくて形が曖昧な字になってしまいがちなのだ。恐らく、手指の神経がまだきちんと発達していないのだろう。僕は多少の字の汚さには目を瞑りつつ、急ぎながら、それでいて無心で問題を解くという不可能事に挑戦していた。
「じゃあそろそろ出かける支度をするわよ〜」
僕は椅子から飛び跳ねて、ベッドの上に畳んでいた服を取り出した。必要なものはすでに前日に準備していた。茶色のショルダーバックの中には、防犯ブザー、キッズ携帯、ティッシュ、最近の満点のテスト、ビニール袋、ボールペンなどが入っている。そして、今までの感謝を示したカードも用意しておいた。こんなお礼のカードを書くのは”ぬのや”として不自然かもしれないため、父の様子も見て、渡すかどうか決めるつもりでいた。
僕はつばのついた帽子を一瞥し、それは手に取らずに、部屋を後にした。
「それじゃあ、準備はできたわね。もうすぐタクシーが来るから、それに乗ってお父さんに会いに行こうね」
お母さんは今までに見たことがないくらい、美人になっていた。肌にはシミひとつなく、光を反射して顔が明るく見えていた。服装もどこかのブランド品でかため、相当気合を入れてきたことがうかがえた。生地は薄いようだが、布の質が良いため、あまり寒くはないのだろう。
「お母さんいつもと違うね」
「これからお父さんに会うから、お母さん、いっぱいめかし込んで、綺麗になっちゃった」
「お父さんってどんな人なの?」
「すっごくかっこいい人よ。会えばわかるわ」
お母さんは浮き足立ちながら、玄関の扉を開けた。タクシーがちょうど家の前の通路に入ってきたところだった。お母さんは手を振りながら、こっちにお願い、なんて元気に言っていた。
タクシーの中は静かで、クッションも柔らかかった。そして、あのなんとも言えない消毒された布の匂いがした。僕はこの匂いが好きだった。好きなものがこうして今もなお残っていると、安心する。
「今日はどうされたんですか」
タクシーの運転手が、話しかけてきた。当然女の人だ。茶髪で、左手の薬指が光っていた。お母さんは待ってました、とばかりに口を動かし始めた。
「実は久しぶりに夫に会う予定なんです」
「それは良かったですね。会える機会はなかなかないですもんね」
会話は盛り上がっていた。
「他の人の予約があるだとか、独り時間が必要だとか、そんな理由で会うのを却下されちゃうんですよね」
「ウチもそうなのでわかります。こっちだって何度も我慢してるのに、開口一番、今日はもう疲れたから良いかな、なんて言い出すんですよ」
「そんな理不尽なことがあるんですか。 他の女の人のことで、どうしてこっちがそんな羽目にならないといけないんですかね、全く」
「それどころか、ウチはそれで電話の回数まで減らされちゃったんですよ」
「電話まで減らすのは流石にやり過ぎですよね」
「ええ。会えない分、電話をしたいのに、それさえも減らされるんですよ!」
大変そうだな。ぼくはまだ見ぬお父さんに同情した。自分と会いたくてたまらない人から来る電話が、たかだか一時間で終わるはずがない。お父さんに何人他の女の人がいるのかはわからない。当時はまだ出生性比が10ぐらいであったはずだから、仮にお父さんには十家族がいるとしよう。毎週何時間電話に費やすことになるのだろうか。それに加えて、毎月何日家族と会う必要があるのだろうか。一家族につき月一回会い、毎週二時間電話をするならば、十家族で月に11日は潰れるだろう。月に二回会うなら、21日潰れる。
――ということは、僕のように男児であれば普通は月に三回会えるというのは、破格の待遇だ。
長話はようやく終わった。お母さんは何かのカードを使って会計を済ませた。いつも見る銀行のクレジットカードではない。恐らく、男性に関わる特別なカードだろう。タクシーの運転手は会話慣れしていた。多分、めかし込んだ女性がタクシーに乗るのは男性に会うためであり、その場合に話すことは大抵決まっているからだろう。
降ろされたのは、新宿の百貨店の側であった。タクシーが離れて行ったのを見計らってか、一人の女性が話しかけてきた。
「布谷様ですね? お待ちしておりました」
しかし、お母さんは少し戸惑っていた。
「ええ、そうですけど、でも一体……」
「失礼いたしました。私は男性の警護を担当しております、赤羽と申します。前回の件を受け、男性をお守りするために、私たち男性警護科が派遣されました」
お母さんは、頭では理解していても、心ではまだ彼女の言葉を受け入れていなかった。
「家族で会うだけなのに、あまりにも過剰じゃないですか?」
「規則ですので」
「主人もこのことを知ってるんですか?」
「もちろんです。我々が警護にあたっておりますから」
「他の女性と主人が会う場合もそうなんですか?」
「規則のため、答えられません」
「そうですか……行きましょう、なおと」
お母さんはムスッとした顔を隠そうともせず、鼻を鳴らして護衛官の側を通り過ぎた。僕はお辞儀をして、お母さんの後についていった。
気まずい沈黙を、お母さんの足音や、車の音が紛らわしていた。僕はちらりと空を見た。いつものように青かったが雲もかかっていた。空気は都心にしてはきれいだが、少しひんやりしていた。
百貨店の奥まったところに、洒落たレストランがあった。看板には簡単にメニューが書いてあり、パフェやケーキなどがあった。その一番上には、「Clair d’étoile」とあり、クレールデトワールとカタカナが振られていた。店の名前だ。星の明かり、という意味だ。さらに店の前のガラスの上には、« Quel fut ton plus beau jour ? » という白い文字が印字されていた。
レストランの中の奥まった席には、二人の女の人が黒いスーツを着て座っていた。更に奥の席に、一人の男と、これまたスーツを着た二人の女の人の後ろ姿がちらりと見えた。僕らに気がつくと女の人たちは全員立ち上がった。赤羽さんが口を開いた。
「ここにいるのは男性護衛チームのメンバーです。本日の面会では、該当男性の護衛が我々の任務です」
「一体何から護衛するんです?」
「護衛対象に対する、あらゆる脅威からです」
「私が脅威だって言いたいんですかっ!」
お母さんは明らかに敵対心を持っていた。すぐに護衛官の人らがお母さんを取り囲んだ。更に、僕の隣にも一人護衛の人が立ち塞がった。このままではまずい。僕は努めて笑顔でお母さんに話しかけた。
「お母さん、この人たちのせいでお父さんに会える時間が減るなんて、嫌で仕方ありません。早くお父さんに挨拶しませんか?」
お母さんは、それを聞いて、態度を少し変えた。
「そうね……それじゃあ行きましょうか」
ところが、お母さんが進もうとしても、警護の人らは一向に動かなかった。
「……一体何なんです?」
「まだ身体検査を終えていないため、該当男性にお会いすることはできません」
「……っ! 今、ここでやれって言うんですか?」
「もちろん、ご不安があれば化粧室などでも構いません。とにかく一度受けていただかなければなりません」
「でも、どうして今なんですか? ここに来るまでに十分にやる時間はあったでしょう……そうですよね――なんて言いましたっけ――」
「赤羽さんです、お母さん」
僕はまだ笑顔を維持できていたが、少し引きつっていたと思う。護衛官の人たちは、何も言わず、壁のように突っ立っていた。恐らく、母さんの言うとおり、事前に身体検査を行うこともできたのだろう。ただ、そうしなかっただけだ。特に悪意もなければ善意もない。検査を行うことだけが決められている。それだけの話だ。
「ええ、いいですよ。わかりました。さっさと終わらせましょう……なおとは先にお父さんと話してきなさい」
お母さんは、納得していないという態度を十分過ぎるほど示しながら、化粧室に向かった。僕を置いて。
僕はこのことに若干の違和感を覚えなくはなかったけども、漸くお父さんに会える嬉しさから、深く考えずに、一歩前に踏み出した。すると、僕の体がそれ以上前に進めないように、大柄な女性が右手を真っ直ぐ横に伸ばした。
「言ったはずです。該当男性に会うためには、先に身体検査が必要になります」
「それなら、この場で済ませてください。僕は早くお父さんに会いたいんです」
……もしも僕が何か間違いを犯したとしたら、それは僕がこのように不用意な発言をしたことだろう。
お母さんはほとんど店の扉を通り抜けようとしていたのに、急に身体を引き返して、僕のそばまで駆け寄った。そして僕の両肩をむんずと掴むと、怒鳴り声をあげた。
「どうしてうちの子まで検査をするんですかっ! 男の子なのにっ!」
僕は面倒ごとがまた始まってしまったことに辟易とした。また、お母さんに付き従っていないことをアピールしたい衝動にもかられた。だからまるでお母さんの会話にはまるで興味がないかのように、辺りを見渡した。
すると気がついたのは、関係者のいる一角を除いて、どの席にも誰も座っていない、ということだった。お昼時なのに、僕たちの関係者以外に誰もいないのはあり得ない。このレストランは完全予約制なのか、あるいは僕が見逃しただけで、店の前には何かしらの張り紙がしてあったのだろう。
「規則では、該当男性の保護のために、他の男性の身体検査をすることは認められております」
「認められているからって、実際にやる必要はありませんよね? 男の子に触りたいだけなんじゃないですか!」
「私どもはプロとして、警護に当たっています。それ以上は口を慎んでください」
「どんな権限で、私を黙らそうっていうんですか? もしかして、私がこうして話してるのも脅威だって言いたいんですか!」
僕の両肩にお母さんの指が食い込んでいた。指だけでもかなり痛い。僕は曖昧な笑みを浮かべたまま、時が過ぎ去るのを待っていた。冷や汗のせいか、あるいは空調のせいか、体が妙に冷えているのを感じた。
ふと、肩から痛みがなくなった。そして、肩が軽くなったかと思うと、ピシャッという音がした。お母さんが、目の前にいる大柄な女性を平手打ちしていた。
そこからは混乱が続いた。女の人たちがお母さんを取り押さえようと詰めかかった。お母さんは肘鉄を喰らわせたり、まるで獅子のように、一歩も動かずに暴れ回っていた。後ろから羽交締めされそうになっても、逞しい二の腕を使って、何度も逃れようとした。僕はその様子をただ傍観していた。何もする気が起きなかった。
背後に人の気配がした。僕はゆっくりと両手を挙げた。そして、またゆっくりと手を回して、両手に何も持っていないことを示した。そしてゆっくりと、両手を伸ばしたまま、テーブルの上に覆い被さるように体を預けた。
「拘束できるように、両手を後ろに回したほうが良いですか?」
僕の質問に背後の人は一瞬狼狽えたが、
「君は特に問題を起こしていないから、その必要はない。体もあげて構わない。ただ、しばらくそのままにしていて欲しい」
とだけ言った。
向こうの勝負もそろそろ決着がつきそうだった。お母さんは三人がかりで床に押さえつけられていた。何人かは引っ掻き傷や打撲を負っていた。
決定的な破局だった。明らかに過失はお母さんにある。唇から血を流している人もいるのだから、傷害罪は免れ得ない。暗澹たる未来を思うと、気が重かった。
その時、奥から一人の男が向かってきた。
「いけません、加藤様。まだ安全が確保されておりません!」
護衛の一人が声をかけた。それを受けて、加藤さんは、しばらく立ち止まっていた。視線はずっと僕にあった。長身で筋肉は隆々としており、精悍な顔立ちをしていた。目や鼻の形は、多少"ぬのや"に似ていた。
「こんにちは、お父様。なおとと申します。本日はこのような事態を招いてしまい、申し訳ありません。母に代わってお詫び申し上げます」
僕の発言を聞いて、加藤さんは少しぎょっとして、たじろいた。
「……ええっと、そうだね、うん――」
「加藤様、ただいま奥方様の無力化が完了いたしました。この後、警察を呼び、事後の処理を託します。加藤様は、いかがなさいますか?」
赤羽さんが加藤さんに尋ねた。僕の目が正しければ、「無力化」という言葉には、手錠をかけるという意味のほかに、鎮静剤か何かを注射するということも含まれているようだ。
「あーそうだな、うん。怪我はないかい?」
加藤さんは、赤羽さんの肩に触り、心配そうに言った。
「ご心配には及びません」
確か、赤羽さんはトラブルの最中、入口で外から招かれざる客が入ってこないか、二人で見張っていた。暴れ回る者がいる中、別の脅威をも警戒して動けるのは、練度が高い証だ。
「それはよかった――お願いなんだけど、警察を呼ばないってことはできないかい? おおごとにしたくないんだ」
「……今回の事態は、実際に護衛官が負傷している以上、刑事事件にあたります。刑事事件につきましては、すぐに警察を呼ぶことが、男性保護局からの通達文において定められております。また刑事事件の場合、訴えるかどうかを決めるのは警察の報告を受けた検察官であるため、私どもが関与できる立場にはございません」
「それはわかるよ。それを踏まえた上で、なんとかならないのか、頼んでいるんだ」
加藤さんは、赤羽さんの髪の毛を手で触りながら、優しい口調で言った。
「……仕方ありません。上長に掛け合って、特別措置として、警察の介入を要請しないで済むか相談してみます」
そういうと赤羽さんは、電話を取り出して、奥の座席の方に移動していった。僕は唖然としながら見ていた。護衛官が負傷するというのは、一大事なはずだ。それでも、警察を呼ばないで済むなんてことが可能なんだろうか。
「大丈夫だよ。許可なんてすぐに降りるよ、だって頼んでいるのは私だからね」
加藤さんはウインクしながら僕に言った。
「ありがとうございます、お父様」
「礼には及ばないよ。それよりも、その口調は、その、一体どうしたんだい?」
「お父様に会っても恥ずかしくないように、母から行儀作法を習いました」
僕はしれっと嘘をついた。
「そうなのかい。それは、すごいね。見違えたようで、驚いたよ」
「お褒めの言葉に預かり、光栄です」
赤羽さんが戻ってきた。
「ただいま確認が取れました。今回に限り、特別に許可が降りました。ですけども、次回は絶対に認められないとのことです。また、奥方様に対するペナルティについてですが――」
「その話はまた後でしよう」
加藤さんが手で制した。
「承知いたしました」
……今僕がやるべきことは、何だろうか。単に事態に収拾がついて、母は今日家に帰れるのかどうかはわからないけれども、とにかく自分は家に送って貰って、そのまま寝ることだろうか。それではダメだ。ここでこのまま帰ってしまったら、また次に会えるのはいつになるのか、わかったものではない。
「お父様、二人だけで話したいことがございます。三十分だけで良いので、時間を割いてはいただけないでしょうか」
加藤さんは、少し驚いた。
「ええと、それは、まあ、良いけども――」
「警護の観点から、それは認められません」
赤羽さんが横から口を出してきた。僕は赤羽さんに毅然とした態度をとった。
「私は面会権を行使したいだけなんです。男子が家族と面会を行う場合、警護を希望しないこともできたはずです。また警護を希望していた場合でも、必要でなければ、事前に連絡をすれば良いはずです……まだ、面会時間まで五分あります」
「しかし――」
赤羽さんが何か言おうとしたけども、加藤さんが助け舟を出してくれた。
「まあ、流石に、こんなことがあったら、警護をゼロにするってわけにもいかない。僕らだけが奥のテーブルに座って、他の人には入口の方で待機してもらうのはどうかな。完全密室っていうわけではないけども、小さな声で話せば聞き取れないはずだよ」
「それで構いません」
「それならそうしよう……できれば敬語はあまり使わないでくれると助かるかな」
そこからの動きはみな早かった。母はぐったりしたまま、どこか別室に連れて行かれた。流石に手錠は外されていた。そして、僕と加藤さんは向き合って座っていた。テーブルの上には水の入ったガラスが二つ置かれていたが、置かれた場所から一度も動くことはなかった。
「ええっと、何か、食べたいものはあるかな」
加藤さんがやや緊張した面持ちで話しかけた。
「結構です。食欲が湧いていないので」
当然、僕も緊張していたと思う。なぜなら、今からやろうとしているのは、明らかに小学生の範囲を超えているからだ。
「単刀直入にいいます。お父様、一つ取引をしませんか?」
「取引?」
加藤さんは、きょとんとした顔で尋ねた。
「私は、男児として、生物学上の父親であるお父様に多く会えるという特権があります。私は、その特権だけではなく、お父様との面会権そのものを放棄したい思っています」
「…………それはなぜなのかな」
「単純な話で、母とお父様との関係が良くないからです。私だけが会うのも軋轢を生みますし、私のついでに母が参加する場合でも、今日の出来事を見るに幸せなことにはならないからです」
「それは…………そうだろうけど」
加藤さんは怪訝な表情をしていた。加藤さんの抱える疑問はわかっている。小4が突然なぜこんなことを言い始めたのか、ということだ。僕はその質問をされないよう、畳み掛けた。
「ただ、その代わりに条件があるので、よく聞いてください。条件は全部で三つあります」
僕は指を三本あげて言った。
「一つ目は、母が今回のことで受ける罰をなるべく軽くすることです。二つ目は、男児が持つ父親との面会権は、私とは何の関係もない理由で行使できなくなった、という風に母には伝えることです。どうしてかはお分かりいただけるはずです。
最後は、これから私の質問にいくつか答えてもらうことです。そんなに大した質問ではありません。ただ、今後私が取るべき行動の参考にしたいだけです。
以上の三つの条件を守れば、私は面会権を今後一切行使しません」
僕にとっては特に痛くない条件だ。面会に使えない面会権など、何の意味もない。それに、これからも母と一緒に暮らすしかないのだから、今のうちに聞けることは何でも聞いてしまった方が良い。
「……最初の二つの条件は簡単だ。妻である以上、罰はあまり望んでいない。しかし、妻に恐怖心を抱いてしまい、もう二度と会いたくないと思った、ということにすれば良い」
幸いにも、加藤さんは僕の質問に答えることを優先してくれた。
「でも、君はそれで本当に良いのかい?」
「全ての小4が、父親を求めて寂しがるわけではありません。それに良いも何も、母とお父様との関係がここまで拗れた以上、会わない方がお互いのためではないでしょうか? 」
「私にはもう会いたくないと?」
「単純に会うことによるメリットがデメリットを上回っていないだけです」
加藤さんは、まだ納得できていないようだった。
「でも、普通は父に会えるというだけでみんな笑顔になるものだけど」
「――それは、娘だからではないでしょうか? 」
僕は僕の異常性を、”なおと”の男性性のせいにした。加藤さんは、頭に手をやりながら、少し考えていた。途中何度か口を開きそうになったけども、最後にはため息をひとつついた。
「わかった。それで行こう。ただ、もしも君の母親が落ち着いて、君が私と会わせても問題ないと思ったのなら、その時は私に直接連絡してくれ。君の母親の面会権が使えるようにするし、私も、まあ、少しは優しくなろう。もちろん、君が自分の面会権を使って、バレないように会いに来ても構わない。その時は歓迎するよ」
これは加藤さんの妥協点だ。いきなり自分の息子が二度と会わないと言い出したから、また会っても問題ないということを伝えようとしているのだろう。
「ありがとうございます。その時は連絡します。それで、質問しても構いませんか?」
「問題ないよ」
「はじめに、まずあなたの社会的地位を教えてください。社会からどういう扱いを受けているのかを知りたいんです」
知らなければならないのは、この社会では、いや、この世界では男としてどう生きれば良いのか、ということだ。そして、父親を自分のモデルロールとすることは、どこの世界でも一般に行われることだ。
「いきなり社会的地位と言われてもなぁ」
「難しく考えないでください。男性の中でもどういう立場なのか知りたいだけなんです」
加藤さんは顎を一撫でして言った。
「僕はいわゆる優良男性なんだ。体は丈夫だし、自慢じゃないけど頭も良い。自分の遺伝情報は国に定期的に渡してるし、家族も二十世帯いる。だから――」
「いろんな特権がついてくる?」
加藤さんは、少し驚いてこちらを見て、頷いた。
「そうだね。お金の使い道がないくらいには稼いでいるよ」
「家族サービスには毎月どのくらい時間をあてているんですか?」
「五時間かな。本当は三時間に減らすこともできるけど」
当然、一家族あたりという意味だ。一日に二家族相手にするなら、月に十日。三家族なら月に六.六、つまり七日。
「どうして減らさないんですか?」
加藤さんは肩をすくめて、少しバツが悪そうに言った。
「暇なんだよ――。漫画やテレビはもう見飽きたし、足を怪我して以来、スポーツもあんまりやらなくなったからね。それに、まあ、お金も貰ってるしね」
「国からお金を貰っているから、余った時間は国のために少しは使いたい、ということですか?」
「――そうだね。そういう気持ちがあるかな」
「優良でない男性、もっと言えば家族を全く持たない男性はどうなりますか?」
「家族がいなくても国のために役に立つことはいろいろとあるけども……」
「もしもそれすらできなかったら?」
「……矯正施設か医療施設行きになるだろうね」
「あるいは、ホームレスなどの社会の外部の人間になりますか?」
「――まあ、そうだね」
驚きはなかった。貴重な男性なのに女性と仲良くできないのならば、手厚い「指導」や「治療」を行う施設があるのも当然のことだ。そして、それに馴染めず、社会から排除された人も一定数いることだろう。
「矯正施設では何が行われるかご存知ですか?」
「いや……あまりわからない。いや、あー、知っていることもあるけども、今の君には言いにくいことなんだ。その、えーと、大人になってから学んだ方が良いことだから」
男性の中でエリートコースを歩んでいる加藤さんからは、この手の情報はこれ以上手に入らないだろう。時間は有限だ。さっさと他の質問をしなければならない。
「下手したら自由が無くなるんですね。では、女の人と付き合っていく上で、何か注意点はありますか?」
「付き合うって、まさか――」
「女の人とのコミュニケーションの取り方を知りたいんです。例えば、結婚しよう、と毎日のように迫ってくる女の人とか」
「といっても小4だろ? ええっと、もしかしてその子も君みたいな感じなのかい?」
「いいえ。普通の、どこにでもいる女の子です」
「って言われてもなぁ。正直、子どものことはよく分からないし、女の人と上手く接する方法なんてあるんだったら、こっちが知りたいくらいだよ」
「普段心がけている事で構いません。どの男性も必ず気をつけているような、そんなレベルのことです」
「それなら簡単だ。安易に約束せず、分からないことはわからないとはっきり言うこと。女性と話す時は、他の女性は絶対に話題に出さないこと。そして、女性にはなるべく平等に接することだ」
「男として生まれただけでイージーゲームだ、という人がいますが、そのことについてどう思いますか?」
「とんでもないね。女性と付き合うのは大変なんだ。特に、女性同士でマウント合戦になった時なんか最悪だ。毎日のように来る娘の自慢メールなんかに、なるべく独特な、他の人と被らない良いところを見つけて返信しなきゃいけない。そうしなかったら、送ったメールが別の女性に転送されて、喧嘩の応酬が始まる。最も、それをしたところで、自慢合戦は防ぎようがないんだけどね」
「どうして女性同士でメールアドレスを知っているんですか?」
「もちろん、男の方でわざわざ教えるなんて馬鹿な真似はしない。でも、女性としては、自分や自分の娘が他の女性よりも扱いが悪くないのか、不安でたまらないらしい。だから、時間調整だとか情報の共有だとか色々な名目で、夫の別の妻を探し出すんだ。あるいは他に、ネットで僕の名前を挙げて、今日の旦那はイケてたとか、一緒に写真撮った~なんてやってる人もいたりする。当然、そういう風に私の個人情報をばら撒かないで欲しいってお願いしてはいるんだけどね」
「男性の個人情報はあまり保護されていないのですか」
「どうやら、ネットで自慢したいっていう気持ちはなかなか抑えられないらしい。それに、目の保養になるからっていうんで、むしろ結婚してない人にも男性の写真を見せるべきだ、なんて意見もあるくらいだよ。たとえ意図してなくても、ネットで一度でも夫の愛称を呼んだり、あるいは写真をアップでもしたら、みんな特定のために必死になって、いつのまにか個人情報は筒抜けだ」
「みんなの関心が高いから、あまり守られていないようですね。これだと色々と危険なこともありそうです」
加藤さんは首をすくめて言った。
「まぁ、足の怪我も、女性に襲われて窓から飛び降りた時に痛めたからだしね。護衛官の人がすぐに駆けつけてくれて助かったよ」
「今回も役に立ちましたね」
加藤さんは流石に少し狼狽えた。僕はすかさずフォローした。
「別に責めているわけではありません。私も一度襲われそうになったことがあるので、当然の対処だったと思います」
「そのことは聞いているけど、でも、君の母親のことだろ? どうしてそんなに冷静でいられるんだ?」
「全ての小4が母親に共感するわけではありません。逆に、激昂して詰め寄った方が良かったですか?」
「それを言われると……でも普通はそうなんじゃないかな。小4だったら」
「男子という時点で普通ではありませんよ」
僕がそう言うと、加藤さんは目をしばらく伏せた。そして再び目を開けた時は、どこか遠くを見ていた。
「そうだね、君の言うとおりだ。男に生まれた時点で、進むべきレールは限られてるし、何をしても良いのかどうかも全て決められてるよ……大変なのはわかるけど、女性が羨ましいよ。一人で山に登ったり、釣りに行ったりできるんだから」
「女性の方が男性よりもいろいろな可能性があるということですか?」
「そりゃあね。極論、自分で金を稼いでいれば、何をやったって文句は言われないからね。みんな個人の趣味で済まされるんだ。男性だとそうもいかない。自分が何をしようとも、常に女性がついて回るんだよ。これは女性ウケが良いのか、女性が見ても目くじらを立てないのか、そのせいで女性に対応する時間が短くならないか、とかそんなことばかり考えてるよ。それに、女性からのコンタクトも無数にある。知らない女性からの連絡はしょっちゅうだし、知ってる女性からの連絡はもっと大変だ」
「だから赤羽さんに惹かれたんですか? 知ってる女性でかつ安心できる人だと思ったから」
加藤さんはハッとして僕を見た。
「どうしてそれを?……いや、君ならそんなことも当たり前なのかな」
「二人の様子を見てればわかります。あなたは腕を引っ掻かれたり、顔に肘鉄を喰らった護衛官ではなくて、特に怪我をしていない護衛官のことを、母よりも優先して心配したからです」
「すごいね。そんなことで分かるのか」
「それで、実際のところどうなんですか?」
「……確かに彼女のことが好きだ。でも、君の言うとおりで、彼女が護衛官の任務をきちんとこなしているからそう思えるだけで、私が彼女に私の思いを伝えた途端、彼女の性格が変わるんじゃないかと思うと何も言えないよ……それに、これ以上家族が増えるのもごめんだしね……軽蔑したかい?」
「いいえ。このご時世、同じような理由で護衛官に惚れる男性も一定程度いるんじゃないでしょうか。男性として、自然な感情だと思います」
「自然……自然ねぇ、そうだね、そうかもね」
加藤さんから得られることは十分に知ることができた。この社会で成功した男性になるためには、当たり前だが、女性たちと上手く付き合わなければならない。女性たちと付き合う上でやるべきではないこと、そして成功するとどうなるのか、反対に失敗するとどうなるのか――。でもまだ一つだけ聞いていないことがある。今聞かなければ、その答えを手に入れるのは非常に難しい。
「最後に一つお尋ねします――母とは何があったんですか?」
「君は、お母さんからは何も聞かされていないのかい?」
「母が何かしてはいけないことをしてしまったらしい、ということだけはわかっています」
「それなら、僕が言うわけには……」
「では、これから母に、父に赤羽さんという新しいお気に入りの彼女ができたみたいだ、と伝えることにします」
「おいおい、勘弁してくれよ……。わかった、わかったよ。答えるから、言わないでくれ。君は本当に四年生かい?」
「身体年齢で見れば紛れもなく小学四年生です」
僕は抜け抜けと言った。
「そりゃあそうだろうね……それで、君の母親のことなだったかな。まあ、はっきり言うとね――」
加藤さんは僕に顔を近づけて小声で言った。
「――監禁したんだよ、私のことを」
「――っ!」
「もちろん、警察沙汰にはなってないよ。お願いしたからね」
「事の経緯を詳しく教えてくれませんか?」
「予定では、君のお母さんとの面会時間は三時間だったんだ。そしてその後、また別の女性と会わなくちゃ行けなかったんだ。ただ、別れようとした時――」
「他の女性に盗られるのを防ごうとして、監禁されたんですね」
「……まあ、そうだね。口を塞がれて、両手も紐で縛られたかな。さっき言ったその女性が私が来ないために役所に電話して、それでGPSを確認したら私がまだ君のお母さんの家にいるっていうんで、私とも連絡がつかないから、警護の人が押し入ったんだ」
「その時、私はどうしていましたか」
「ええっと、君は、確か、どこか待機所のような所に、預けられていたんじゃないかな。詳しくはよくわからないな」
「……そうですか。貴重なお話、ありがとうございます」
話はこれで終わった。もちろん、今日この後どうするのか、といった細かい話は警護の人や加藤さんも交えて、いろいろと話した。ただ、加藤さんと話していてこれ以上知れることはもうないだろう。
ふと、僕は二つのことを新しく疑問に思った。夫との逢瀬のために自分の家から息子を追い出すのはどうなんだろうか。普通なんだろうか。それに、父が一度も母さんのことを布谷と呼ばなかったり、僕を"なおと"と呼んだりしなかったのは、普通なんだろうか。
もちろん、こんなことは誰も教えてはくれないだろう。僕は母が目覚めたと言う話を聞いて、大きなため息を一つついた後、レストランを後にした。
1) 「あなたの最も楽しかった日は?」II. Nevermore 、第二連第四行。11ページ。Poèmes saturniens (1866)より。