表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
それでも空虚だ  作者: じぇぱでぃ
2/4

第二話 ごんぎつね

 目覚ましの音がする。また、”なおと”としての一日が始まった。

 

 僕はパジャマを脱ぐと、半袖のTシャツを着て、薄茶色のズボンを履いた。二階の僕の個室にはベッドが扉から左側に真っ直ぐ置いてあり、右側には勉強机と本棚が配置されている。ドアの向かい側には窓があり、この窓はあの幼なじみの大野の家とは反対側に面している。だから僕はこの窓が好きだった。


 カーテンを開くと朝日が差し込んできた。ちょうど、散歩をしている女の人が目に入った。紺色のハットを被っているから表情は目に見えない。更に先はT字路になっていて、塀には色褪せた選挙ポスターが何枚も貼ってある。もちろん写っているのは女性議員だ。流石に文字まではここからは見えないけども、確か「男女の協調」や「両性の平等」なんかを掲げていたはずだ。

 

 僕はカーテンを閉めると、ランドセルを右肩にかけて、一階に降りて行った。


 今日の朝ごはんは二切れの食パンで、一方には目玉焼きが、もう一方にはハムがのせてあった。僕はいただきます、と言った後、麦茶を飲んでからパンをもそもそと食べ始めた。目の前には”なおと”のお母さんが座っていて、横にあるテレビからニュースが流れていた。

 

 彼女の名前は布谷由美子。三十代前半だろうか。肌に潤いがあり、仰々しいけど、緑の黒髪をしている。まあ、要するに美人ってことだ。目元は少しくまがあるけれど、心なしか少し元気そうにみえた。


「では次のニュースです。……県で、昨年12月、男児にみだらな行為をしたとして、東目の取締役の女が逮捕されました。女は、今年3月に逮捕された仲介人に約一億三千万円を支払って男児を紹介してもらい、行為に及んだとのことです。調べに対し女は、「男児が好きだった」、と容疑を認めているとのことです。この仲介人の裏には世界的な男子児童売春斡旋組織があると見られており、警察はこの組織の全容の解明を急いでいます……」


 お母さんが喰いいるようにテレビを観ていた。

 世間の話題はここ最近これ一色だ。東目の正式名称は東京目黒電気株式会社といって、日本でも五本の指に入る電気メーカーで知られている。そんな人たちが人生を棒に振るうくらい、男児は貴重で、魅力的だ。


「今日は送って行くから」


 食事が終わり、お母さんが言った。テレビに影響されて、と言いたいところだけど、朝に見た女の人のことを思い出して、僕はうん、とだけ言った。


 僕は”なおと”のお母さんのことを、ただお母さんと呼ぶことに決めていた。ただ、呼ぶ時の声はどうしても少しぎこちなくて、弱々しかった。今みたいに心の中で言うこともしょっちゅうだ。きっと、自然と呼べる日は来ないだろう。


 

 家の扉を開けると、少しだけ草の匂いが混じった空気が入ってきた。周りには、さっき見た女の人は見当たらなかった。代わりに、大野さんが、赤色のランドセルを背負いながら、家の前の低い段差に座っていた。


「おはよう、なおと」


「おはよう」


「あら、絵見ちゃんも待っててくれたのね。なら途中まで一緒に行こうか」


 僕と絵見は、いつも一緒に登校するわけではなかった。僕が起きる時間をマチマチにしていたからだ。

 

 “なおと“の体になって間もない頃、何時に起きれば良いかわからない不安から6時に起きたことがある。その時、お母さんはビックリして、いくら目が覚めた時間が起きる時間だからと言ったって、限度があるでしょ!、と怒っていた。僕はその時初めて、”なおと”がどういう子なのか、その一端を知ることができた。”なおと”の生きた痕跡をようやく知ることができた。だから僕は、そんな”なおと”の真似をして、いつも好き勝手な時間に起きるようにしている。


「なおとは最近どう? 元気にやってる?」


「この間のテストも満点でしたし、授業も真面目に聞いています」


「他の女の子たちの様子はどう?」


「よく話しかけてますけど、だいたい尚人は無視したり、軽く流してます」


 僕そっちのけで会話が始まった。3人で歩くと1人余るのは仕方ない。それに正直少しホッとしていた。何をどう話せば良いのかわからないからだ。 “なおと”は何が好きだったんだろう。どういう話し方をしていたんだろう。何ヶ月も経っているのに、未だに手がかりはほとんどなかった。

 

「今日はどこかお出かけになるんですか?」


「ええ、役所でちょっと手続きしてから、買い物に行くの。だからなおとは今日も一緒に絵見ちゃんと帰りなさい」


「わかったよ」


 お母さんはそれを聞いて少し止まったけど、またすぐに絵見と話し始めた。


「本当になおとはちゃんと勉強できてる? 家で宿題をやってるのなんて今まで見たことないけど」


「いつも宿題を出してますし、かなり積極的に手を挙げたりしてます」


「そうなの。それにしても絵見ちゃんって、本当に大人っぽいねぇ。実はなおとも最近は見違えるようになったの」


 ドキン、と心臓が高鳴った。


「……そうですね。最近はなんて言うか、周りと話してても、どこか冷静な感じがします。昔はもっと、感情を、こう、ストレートに出していたと思うんですけど」


 大野はこちらをチラッと見ながら答えた。


「なおともそういう年頃になったのね〜」


 僕は何も言わなかった。違うんだよ。大人びたり、冷静になったりしたんじゃない。”なおと”じゃなくなったんだ。今あなたたちの目の前にいるのは、”なおと”の皮を被った別人なんだ。


 喉から”真相”が今にも飛び出しそうになっていたけれども、同時にそれを何とかして抑え込もうともしていた。話したいし、話したくない。そんな対立した二つの気持ちが一つの体に同居しているのは、気持ちが悪くて仕方なかった。


 お母さんはそんなしかめっ面をする僕を見て、

 

「少しむすっとしちゃったわねー」


 なんて言いながら、大野にいくつか言付けをした後、大通りで僕たちと別れた。

 その後、大野は僕に何も話しかけてこなかった。理由はわかっていた。学校に近づくにつれ、僕に集まる視線は多くなっていたからだ。校門に着いた頃には、僕の周りには五、六人くらいの女の子たちがいた。遠目に見ている子たちはもっといるだろう。大野を見ている余裕もなく、僕は矢継ぎ早に話しかけてくる女の子たちを相手しなければならなかった。



 いつもの通り、学校は退屈だった。考えてみてほしい。小学四年生の授業だ。多少懐かしいな、と思ったり、忘れていたことがあったりしても、十分程度集中して教科書を読めばそれで仕舞いだ。唯一の救いは、一コマの授業時間が45分と短いことだろう。

 

 池谷先生は全員が教科書を持っていることを確認し、授業を始めた。

 

「はーい、それじゃあ、今日は『ごんぎつね』の続きをやるよ~。前回は何をやったか覚えているかな~ ?」


「はいっ!」


 武田さんが元気よく手を挙げた。


「あらすじと本文を読んで、みんなで話し合いました!」


「はい、そうだね。もっと詳しく言うと、最初のこの"一"って書いてある部分だけみんなで音読して話したんだよね。その後の文章はお家で呼んでくるのが宿題だったよね。みんな読んできたかな?」


 先生が周囲を見渡しながら言った。三、四人くらいだろうか、忘れたーという声がどこからか聞こえてきた。先生はその子らに軽く説教をしてから、みんなに向けて指示を出した。


「そしたら――少し時間をあげるので、読んでこなかった子はその間に読んでね。もう読んじゃったよ、って子は、今度は登場人物の気持ちを考えながら読んでみて。それじゃあ、今から8分時間をあげるから、黙って読んでみよう!」


 僕は小学四年生の「正しい国語 四年下」を裏返した。この裏に書いてある名前は、当然自分で書いたものだ。上巻はもう使わないために、家の引き出しの中にしまってある。だから、"ぬのや"が名前を書いた教科書は、もう音楽と図工しか残っていない。家庭科の教科書にはそもそも名前が書かれていなかった。先生がこちらを見てきたので、僕は机の中から国語辞典を取り出し、それをめくり始めた。


「お、偉いねー。もう読んじゃったから、辞書を使ってわからなかった言葉を調べてるんだね――他の子も、読み終わったら、注を見たり、辞書を使って調べてるんだよ」


 僕はほっと胸をなでおろした。これからは国語の授業中は辞書を読んでいるのも良いかもしれない。

 

「ねぇ、ちょっと見て。弥助って男の人なんだって」


と左側から声がした。森さんと横山さんだ。昔から仲良しらしい二人は、席が隣同士なのもあって、たまに騒がしい。


「えっ、うそ!? 何でわかるの?」


「注見て、注。注の3!」


 僕は辞書を閉じると、教科書を開いた。難しい言葉なんて何もなかったから、注のような細かい補足は全く読んでいなかった。注3は家内という言葉についており、「妻のこと。昔は男と女が一対一で結婚しているのが普通でした。そのため、この小説に出てくる固有の人名を持つ登場人物は全て男性です」と記載されていた。

 

「わっ……ほんとじゃん、やば! じゃあ、兵十も男だったってこと!?」


「ほらそこ! 騒がない!」


 先生は叱ったけども、クラスは蜂の巣をつついたような騒ぎだった。


「え、兵十って男だったの? なんでまだ結婚してないの?」

 

「確か狐もオスだよね? ってことは、男同士でケンカしてたってこと?」


「いやこの狐ってヒドくない? 普通にダメでしょ」


「これ男なのに1人で外に出て川に入ってるの? 待って! ってことは、裸だったりする!?」


「皆さん、静かに。しーずかーに! こっち注目! ……。昔は、男の人は女の人とほとんど同じくらい、それどころか女の人よりも少し多いくらいいたの。みんなもどこかで聞いたことあるよね? そう、つまり、このクラスで言えば、この列からこの列までがみんな男の子だったってこと。しかも、それだけじゃないんだよ。外で働いたり、政治に参加したり、あるいは戦ったりするのはみんな男の人だったの。この物語は古い時代のものだから、実は登場人物は全員男なんです」


 クラス中がどよめいた。みんなが口々に、この時代に生まれたかったなー、だの、私も〜、なんて言い合っている。僕は横目で、誰かが僕のことを見ているのを確認した。こういう風に男子のことが話題になると、何人かの視線はいつも僕に向く。いまではもう慣れっ子だ、最初は怖くて仕方がなかった。”ぬのや”として何かおかしいことをしたのだろうか。それとも”ぬのや”が以前なにかしでかしたのだろうか、なんて恐れていた。でも実際はそんなことはなくて、”ぬのや”は男子代表であって、他の男子の話題も”ぬのや”と結びつけられるんだ。例えその人が物語の中で暮らしていようとも。

 

 先生は暫くしてから話を続けた。

 

「狐のごんが兵十見つけた時、兵十は何をしてたかな? 」


 うなぎを獲ろうとしてました、という声がした。


「そうだね。それじゃあ、兵十は何のためにうなぎを獲ろうとしたのかな。わかる人いるかな?」


「はいっ!」


と元気よく隣の席の森さんが手を挙げ、お母さんのためです、と言った。


「そうだね。そしたらちょっとみんなで考えてみようか」


 先生は声をそこで一旦やめ、周りを見渡した。


「兵十のお家ってどんなお家だろう。美味しいものを一杯食べられるくらい、裕福かな?」

 

 みんなは少しキョトンとしていた。僕も黙っていたけど、みんなとは理由が違う。というよりも、疑問に思っているところが違う。兵十がお母さんのためにうなぎを獲ろうとしたというのは、あくまでもごんの推測に過ぎない。僕は突っ込みを入れようかどうか迷っていた。


「教科書の64ページを開いて〜。ここの六行目に、『兵十はぼろぼろの黒いきものをまくしあげて』ってあるよね。兵十は、ぼろぼろの服を着てるんだよ。しかも、しかもだよ。70ページ開いて! 70ページの二行目に、『兵十は今まで、おっ母と二人ふたりきりで、貧しいくらしをしていた』、ってあるよね。だから、兵十は裕福じゃないよね」


 それでもまだ周りの子たちが何人か不思議そうな顔つきをしていたため、先生は言い添えた。


「この時代、冷蔵庫はそもそもなかったんだよ。しかも、スーパーやデパートもないの」


 えーっ、という驚きの声が四方からあがった。お菓子も食べられないの、という声もした。

 

「そう。だから、お金を持っていない人は、食べ物を自分で用意しなくちゃいけなかったんだよ」


「男なのにそんなことしなきゃいけないんですか?」


「さっきも言ったように、この時代は男の人が働くのが普通だったからね」


 そこからは質問の嵐だった。先生の説明にようやく理解が追いついたからだろう。


「男の人が働けなかったらどうするの?」


「兵中が銃を持っているのはなんで?」


「先生は兵十と結婚したい?」


 先生はみんなの好奇心を抑えられないと見るや、すぐにA3の課題プリントの端を両手でつまみ、教卓の上で掲げた。みんなはそれに気を取られ、クラスが瞬間、静まった。先生はその気を逃さなかった。


「そしたら、今度はこれをやりましょう。今日みんなが学んだことを元に、兵十がどんな暮らしをしているのか、兵中はどんな性格なのかを書いてみよう。それが終わったら、今度は狐のごんの方も書いてみて」


 ポツポツと独り言を言ったりする子もいたが、全体的にみんな課題に取り掛かかり始めた。僕は教科書を素早くめくりながら、さっさと空欄を埋めていった。ふと手が止まった。課題の一番最後には、『ごんぎつね』に関して、疑問に思っていることやわからないことについてメモしておこう、と書いてあった。

 

 こういうある程度自由度が高い課題が一番困る。“ぬのや”として、最も自然な答えはなんだろうか。まさか、

“兵十のお母さんは狐の推測通りにうなぎを欲しがったまま亡くなったのか”、ではないだろう。

 

 先生が黒板に今日の宿題を書いていた。課題の残りと、漢字のワークだ。漢字は既に以前の授業の時に終わらせていた。課題は家に帰ってからやってもよかったけども、なんだか癪だ。

 

 僕は30秒ほど考え、


「女の人たちが何を考え、何をして暮らしているのかがよくわかりません」


と書いた。するとチャイムが鳴った。クラスがまた騒がしくなった中、僕は国語のテキストを教室の後ろにある棚にしまい、鍵をかけた。

青空文庫『ごんぎつね』<https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html>

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ