小さな先生と大きな生徒
山向こうへと日が隠れ、辺りが暗くなったことで、今日の農作業は終わった。
朝と比べて随分と重くなった体を引きずって、母屋へと戻る。
作業着の土を払い、母屋脇にある物置で部屋着に着替える。
母屋に入ると、先に上がっていたエリカさんが夕飯の仕上げにかかっていた。
テーブルには、仲良し姉弟が座っていて、今日の成果を自慢し合っている。
「今日はいっぱい獲れちゃったね。こんなの初めてかも」
「そうだね〜。これだけあれば干し魚が食べ放題だよ!」
二人は学校から帰った後、近くの川へ釣りをしに行っていた。
ついでに仕掛けていたワナからも、魚が取れていたようだ。
さっそく、夕飯には川魚の料理が並ぶことになっている。
余った分は干して保存食、もとい酒のアテになる。
「今日はよく釣れたみたいだな」
「あ、お兄ちゃん。お疲れさま!」「……お疲れさま」
エノクとリュッカが、仕事の疲れを労ってくれる。
仕事をして褒められるって、単純に嬉しい。
「今日はどこの川で釣って来たんだ?」
「“棺の森“は憶えてる?」
「ああ、僕が寝てたところだな」
「そこに谷から流れてくる川があって、私たちは“ヴィンダルの雫“なんて呼んでるの」
「ヴィンダルの雫……なんかカッコイイ響きだな」
「由来は“ヴィンダル“という神話の巨人から来ているの。この辺りの山脈も“ヴィンダル山脈“と呼ばれていて、それは巨人ヴィンダルの亡骸から生まれたという話もあるって。……本に載ってた」
流暢に語り出すリュッカに、僕は目が点になっていた。
知識を披露する彼女はまるで、一人の歴史家のようだった。
「すごいなリュッカ。物知りなんだな」
「……大したことないよ。ただ本で読んだだけのことだから」
「えっへん! リュッカはすごいでしょー!」
謙虚なリュッカの代わりに、エノクが胸を張る。
言わずもがな、エノクはリュッカを見習うべきだろう。
ただ、たまにはリュッカもエノクを見習ってもいいと思う。
「なあリュッカ、もしよかったら、色々教えてもらえないかな?」
僕は思いつきで、彼女にお願いをしてみる。
「……え?」
「ほら、僕、こっちのこと何も知らないから。」
「……でも、きっとつまらないよ、私の話なんて」
前世なら神話は、ただの御伽噺でアニメやゲームの素材としか思っていなかっただろうけど、ここは“異世界“だ。御伽噺の世界に他ならない。神話の巨人がいたっておかしくないし、単純に好奇心がくすぐられる。
「つまらなくないよ。“異世界“のことなら、何だって興味があるんだ」
「……“イセカイ“?」
聞きなれない単語にリュッカが訝しむ。
この世界には、別の世界を指す“異世界“という言葉はないのか。
ちなみに、別の世界から来たってことは、すでに二人には言っている。
あと、シタッカ村の門番も知っている。
「今いる世界とは、別の世界のことだよ」
「ああ、そういえば……門前払いされた時に言ってたね」
「案の定、信じてもらえなかったけどね」
「……私も何を言ってるのか分からなかった。でも、そんな嘘つく意味もないし、本当なのかなって」
「どんな形でも、信じてくれてるだけで、ありがたいと思ってるよ」
「異世界から来た」と言って、どれくらいの人が信じてくれるだろう?
僕なら痛いやつが現れたと思う。こんな世界に転生するやつがいるか、とも思う。
「それじゃあ、アダムさんの世界の知識と、私が知ってる知識と交換……だったらいいかな」
「そんなことでいいなら、いくらでも話すよ」
「……交渉成立だね。私も、私の知ってることでよければ教えるね」
「ありがとう。今から楽しみだ」
「……あんまり期待はしなくていいから」
リュッカは少し俯いて、手をモジモジさせている。
褐色の頬に、僅かに赤みがさしている気がする。
もしかして、恥ずかしがってるのか?
恥ずかしいことなんて、何もなかった気がするんだけどな。
「ご飯出来たわよー」
そこにエリカさんの声がかかる。
僕は配膳のために席を外した。
「……ねえエノク、どうしたらいいかな?」
「なにが?」
「私の話に興味を持ってもらえて嬉しいんだけど、緊張しちゃって……」
「僕にするみたいに話せばいいじゃん」
「エノクはちゃんと聞かないでしょう。はあ……ドキドキするなあ」
「ふーん、変なの」
テーブルに夕食が並んでいく。
今日は川魚のムニエルに、根菜のシチューだ。
バターの香ばしさが食欲をそそる。
「「「いただきます」」」
手を合わせて、食材への感謝を示す。
この生活を始めて、口にする命が身近に感じる。
前世よりも、人間らしい生活を送っている気がするな。
夕飯の時間は、今日も賑やかに過ぎていった。
・・・・・・・・・
――コン、コン。
木製の扉をノックすると、小気味良い音が鳴る。
「エノク、リュッカ、入っていいか?」
「いいよー!」
「……ど、どうぞ」
扉越しに二人の返事が聞こえた。
ドアノブを捻って、扉をあける。
部屋の中は、ランプの放つ暖色の光に照らされていた。
「お邪魔します。悪いな、こんな夜中に」
「……ううん、私たちはまだ起きてる時間だから」
「そうそう!」
入口から見て部屋の両端に、2人分のベッドと机が対称に配置してある。
ベッドの上には寝衣に着替えた、エノクとリュッカが座っている。
僕は部屋から持ってきた椅子を置いて、二人が視界に入る中央へ座った。
「リュッカ先生、今日はよろしくお願いします!」
そう言って、リュッカに軽く頭を下げる。
目の前の幼い少女は、アワアワした様子で戸惑っている。
「先生だなんて……持ち上げすぎだよ」
「僕にとっては先生だ。今日からよろしく頼むよ」
「……繰り返しになるけど、あまり期待しないでね」
そう付け足すリュッカ。
しかし、僕の好奇心はエサを前にした犬のように、息を荒らげていた。
リュッカには悪いけど、期待しないというのは無理な話だ。
全く知らない世界の話を聞けば、誰だってワクワクくらいする。
「はいはい! 質問いいですか!?」
一番槍はまさかのエノクだった。
元気いっぱいの、この生徒は何を聞くつもりだ?
「リュッカ先生は好きな人いますか?」
小学生か! ――まあ、エノクはそのくらいの歳か。
しかし、リュッカに好きな人がいたら……ちょっと気になるかもしれない。
「なっ…す、好きな人なんていないよ! ……変な質問は禁止だから!」
「え〜、いいじゃんそれくらい〜」
「……禁止なの!」
リュッカは顔を赤らめて、怒っている。
対するエノクはなぜか不満そうだ。ちょっとは反省しろ。
リュッカがしきりに目配せしていることだし、早めに質問をしよう。
「質問いいですか先生!」
我こそはと、勢いよく手を挙げる。
こんなに積極的だったことは、学校に通っていた頃にもなかった。
「はい、アダムさん。……あと先生ではありません」
「まずは、シタッカ村周辺のことを教えて欲しいです!」
「村の周辺となると地図が要りそう。……ちょっと取ってくるね」
リュッカは自分の机の棚から、やや燻んだ紙束を引き出す。
それを広げると、小さな世界の断片が浮き上がった。これが“異世界“の姿か。
「……ありがとう、わざわざ用意してくれて」
「ううん、これくらい……なんでもないよ」
そう言いつつ、二人で古ぼけた地図を眺める。
ただ眺めるだけでは、大地のうねりに圧倒されるばかりだ。
「ここがシタッカ村で、私たちはこの辺りにいるの」
小さな指が、さらに小さな村を指し示す。
縮尺から見ても、シタッカ村は大きな村とはいえない。
ヴィンダル山脈に囲まれて、この村は外界から孤立している。
村から伸びる、蛇のように細くうねった道を辿ると、違う村へと繋がっている。
「そこは隣のテトロ村。反対の道から行けるのはシャンタ村だよ」
シタッカ村を中間点として、北にテトロ村、南にシャンタ村がある。
どの村もシタッカ村と同じように、山脈に囲まれた場所にあった。
そんなところに、ふらりと見かけない人物がいれば、不審者と思われるのも無理はないか。
そういえば、村で門前払いを受けたときは、どこかへ逃げ出してやろうとか考えてたっけ。
この地形を見た後では、自分の命知らずさに肝が冷える。
二人には命を救われてばかりだ。
それから、山脈を越えて広がる世界を見渡す。
しかし、この峻険な山脈の外に、町や人の住む印は見当たらない。
……そこで、不意に目を引くものを見つけた。
「……この西の方にあるのは、何なんだ?」
村のあるヴィンダル山脈を下り、西に抜けた先には平原が広がっている。
そして、平原を越えて、さらに西の先には何やら境界線が引かれている。
境界線の西側は、鉛筆に似た黒で塗りつぶされていて、わからない。
――ただ“ソドムニア“とある以外は。
「この“ソドムニア“というのは国なのか?」
僕は素朴な質問をしたつもりだった。
考えてみれば、おかしな話だった。
なぜシタッカ村といい、近隣の村は不便そうな地にあるのか。
村の住人が警戒していたのは、僕という個人ではないのかもしれない。
リュッカが重々しく口を開く。
「……うん、国だよ。強くて、恐ろしい“ニンゲン“の国」
「“ニンゲン“?」
“ニンゲン“とは人間のことか?
この世界にも人間くらいいるだろうと思っていたんだが……人間が強くて、恐ろしい?
……というか、リュッカたちは人間じゃないのか? てっきり人間だと思っていたんだが。
人間という言葉が出てきたことで、一気に疑問が溢れてくる。
「アダムさんも、“ニンゲン“のことは必ず知っておいて」
「そんなに重要なことなのか?」
「どの村でも“ニンゲン“は禁句なの。アダムさんは疑われているから、特に気をつけて」
「ーーわかった、気をつけるよ」
僕も“ニンゲン“だよーーとは、言いだせなくなった。
うっかり口を滑らせてたらヤバかったな。
「禁句になるってことは、“ニンゲン“が何かやらかしたのか?」
「私は知らないんだけどね。“人間“のことは授業で習うし、長老や村のお年寄りは知ってるんだ」
「どんな話なのか教えてほしい」
「わかった、教えられた通りに話すね。……ある日、“ニンゲン“が現れて、私たちのご先祖様たちの故郷を焼き払いました。生き残った人も、逃亡中の厳しい環境に耐えられなくて、ほとんどが行き倒れました。最後に残った僅かな人が、奇跡的にヴィンダル山脈へと辿り着いて、新たな故郷となりました。それが村の成り立ちです。……掻い摘んじゃったけど、こんな感じだよ」
「……やべーな、“ニンゲン“」
それはまるで歴史……いや、どちらかといえば神話に近い話だと感じた。
圧政者、暴君と呼ばれる支配者が現れて、異なる文化、異なる民族の者は迫害される。
リュッカたちは、迫害された民族の子孫だった。この村が隠れるようにあるのは、そういうことか。
「恐ろしい奴らだ。そいつらはどうして、ご先祖様を襲ったんだろうか?」
「……“ニンゲン“は戦いが好きで、ずる賢くて、自分達のことしか考えてない。だから。ご先祖様たちを襲った理由も、知れば大したことじゃないかもしれない。……他の民族からは“裏切りの民族“なんて呼ばれてるみたいだし」
そう語るリュッカの顔は、いつになく険しい。
どうやら、こちらの“ニンゲン“は碌でもない奴らのようだ。
その“ニンゲン“と同じと見られては、生きていけなくなる。
「“ニンゲン“の話ばかりになって悪いんだが、そいつらの見た目ってわかるか?」
「村長が言うには……手足が2本ずつ胴体にくっついていて、頭は一つ。目や耳が異常に尖っていて、捻れたツノも生えてるんだって」
……それ絶対に僕の知ってる“人間“じゃないな。
なんだそのグロテスクな特徴は。どっちかというと、西洋の悪魔に近いイメージが浮かぶ。
“人間“ノットイコール“ニンゲン“と見ていいのかもしれない。
「不気味だが、分かりやすいな。しかし、山脈で遮られてるとはいえ、そんなヤツらが西の方にいるなんて落ち着かない」
「そうだね。……本当はもっと遠くの、追手が来られない場所に逃げられればいいんだけどね」
「それにも訳があるのか?」
「ここを見て」
リュッカは村のあるヴィンダル山脈から、東の方向を指差す。
「南北へと伸びる山脈を抜けるのは難しい。けれど、東へは大きな谷から抜けられるの。ただ、その先は森と砂漠が広がっていて、とてもじゃないけど、私たちには越えることが出来ない。……だから、この山脈に隠れているしかないの」
無知というのは、我ながら恐ろしいと実感する。
まさか、これほどシビアな状況に置かれているとは、思いもしなかった。
今こそが僕の平穏だと、呑気に構えていたことを知れば、リュッカはどんな顔をするだろう?
“異世界“に生まれたことで、僕はいつの間にか平穏を与えられたと思い込んでいた。
平穏などというものは、都合の良い幻想だったのかもしれない。
「……アダムさん、怖がらないで」
「え?」
「“ニンゲン“はもう100年以上、姿を見せていないから。……だから、大丈夫」
そう言って、リュッカは僕の手を、その小さな手で覆う。
ーーその時になって、僕の手が震えていることに気づいた。
「え……なんで、震えて?」
何が怖いのかも分からず、身体が先に恐怖を感じている。
これまでにない自分の反応に、自身が戸惑っていた。
「私も長老から、この話を聞いた日は震えて眠れなかったの。そんな時、お母さんがこうして毎晩、手を握ってくれたんだ。そうしたら、いつの間にか安心して眠れるようになったの。……だから、アダムさんには、私がしてあげる」
リュッカは優しく微笑む。
その姿は、エリカさんと瓜二つだった。
「……僕は自分が臆病ってことを、忘れてたみたいだ」
小さな手の温もりに、少しづつ震えが収まっていく。
「もう大丈夫そうだ。……ありがとう、リュッカ」
「うん、どういたしまして」
そういうと、彼女は少女らしくはにかむ。
こんな小さい子に心配をかけるなんてな。
情けないとは知っていたが、嫌というほど実感できた。
「……もう遅い時間だな」
「そうだね」
正確な時刻は分からないが、夜が深まった感覚がする。
暗黒の世界は一層静かになり、窓から見える星は輝きを増した。
そして、エノクはというと、ずっと前から寝落ちしていた。
やけに静かだったのはそのせいだった。
「そろそろ部屋に戻るよ。明日も仕事だし」
「うん、そうだね」
「今夜はいい勉強になった。よければまた教えてやってくれ」
「もちろん、いいよ。……その代わり、今度はアダムさんのことも教えてね」
「……いいけど、あんまり期待しないでくれよ」
――ふふっ。
リュッカが控えめに笑う。
自分がさっき言った台詞だと気づいたのだろう。
その笑顔に釣られて、僕も笑った。
「それじゃあおやすみ、リュッカ」
「おやすみなさい、アダムさん」
椅子を外に出して、扉を閉める。
木の床を軋ませながら、自分の部屋へと戻る。
“異世界“の恐ろしさと、優しさを知る夜だった。
ベッドに入り布団を被ると、いつも通りに眠気を感じる。
どうやら、リュッカのおまじないは効果的めんらしい。
「……」
……そういえば、なぜ“ソドムニア“と読めたのだろう?
地図に書いてあった文字は、見たこともないものだった。
普通に読めてしまったから、その不自然さに今更気がつくことになった。
これも“異世界転生“の特典だったりするのかもしれない。
……まあ、考えても仕方ないか。明日も仕事だし寝よう。
そうして僕は、細かいことを頭から追いやることに成功した。今日はよく眠れそうだ。