農夫、初めました
それは地獄のような光景だった。
村は炎に包まれ、煌々と夜を照らしている。
焼かれた地面の上には、幾つもの人影が横たわったいる。
彼らの背には、射かけられた矢が立ち。
鋭い獲物で切り裂かれた痕がある。
その中には、よく見知った姉弟の姿もあった。
そして、二人を守ろうとしたであろう、母親の姿も。
血を滲ませ倒れる彼らを、炎が緩やかに焼いていく。
僕はそんな光景を、呆然と見つめている。
ーーあの鉄の足音がやってきた。
炎の煌めきを纏った、鋼鎧の殺戮者たち。
次の瞬間、僕の身体には何本もの矢が立っていた。
仰向けに倒れると、空には満点の星空があった。
それを最後に意識が遠のいていく。
こんなのは、きっと悪夢に違いない。
目が覚めるときにはきっと、エノクがいる。
リュッカも、エリカさんも。
それに……アリュシアだって。
……アリュシア? それは誰だっただろう?
「……」
暗闇の底へと意識が沈んでいく。
抗えない力が、僕を何処かへと連れて行く。
これで、僕の“異世界“は終わるのか。
……もっと、生きてみたかったなあ。
・・・・・・
コケッコー! コケッコー!
微睡の外側で、騒がしい鳴き声がする。
布団の柔らかさでそれを、拒絶する。
まだ朝じゃない。まだ朝じゃない。
――バーン!
続いて、扉が派手に開かれる。
ドスドスと、恐ろしい足音と共にやつが現れる。
「お兄ちゃん、朝だよー! 起きてー!」
朝じゃないと、これ以上は言い逃れはできそうにない。
布団を捲って身体をゆったり起こす。
「おはよう、エノク。今日も元気だな」
窓の外で、地平線から太陽が世界を覗いている。
こうして、また“異世界“の1日が始まった。
……そういえば、何か酷い悪夢を見ていたような。
だのに、肝心の内容はすでに朧げになりつつある。
夢の中でも死ぬなんて、僕はよっぽど死に縁があるらしい。
――どこかで、あの死神に笑われている気がした。
・・・・・・
「おはようございます。エリカさん」
「おはよう、アダム」
リビングに降りて、まずは家主にご挨拶。
エリカさんはキッチンで、朝食を作っている。
エプロンを着るエリカさんは、今日も美しい。
僕はテーブルについて、それが出来上がるのを待つ。
――その間に、正面の眠そうな娘さんに声をかける。
「リュッカ、おはよう」
「……うん。おはよう」
寝ぼけた挨拶が返ってくる。
リュッカは目を擦って、まだ眠たそうにしている。
普段はしっかりした娘だが、朝はギャップがあって可愛らしい。
「水飲むか?」
「うん……」
「僕も飲む!」
「はいはい」
水差しから器に水を注いで、二人に差し出す。
リュッカは両手で器を持って、ちょっとずつ水を飲む。
一方、エノクはぐびっと勢いよく飲み干した。姉弟の違いって面白い。
「さあ、できたわよー」
エリカさんがテーブルへ、朝食を並べる。
僕は食器棚からナイフとフォークを取ってくる。
それから、また全員の器へ水を注いだ。
家族がテーブルについたところで、エリカさんが手を合わせる。
「地上の恵みに感謝します。頂きます」
「「頂きます!」」
エリカさんの挨拶に、僕らも続ける。
こういうところは、なぜか日本と変わらないんだよな。
日本語が通じるのは、“異世界系“の設定ならよくあることだ。
僕の言葉は都合よく翻訳されているのかも知れない。
日本語が公用語の世界というのは、ちょっと考えにくいし。
「……いただきます」
寝坊助な声が遅れてくる。
隣の眠り姫が、二度寝しないよう見ておこう。
住み込みの農夫として雇われて、もう1週間になる。
初めは不安しかなかったが、新しい生活は平穏そのものだ。
それもこれも、エリカさんという素晴らしい人のおかげだった。
朝の肉体労働に備えて、余さず朝食を味わう。
机に並ぶのはどれも湯気が立っていて、食欲をそそるものだ。
採れたて卵の目玉焼き。
豚らしき動物のベーコン。
自家製パンのトースト。
目玉焼きを崩して、ベーコンと一緒に食べるのは最高だ。
トーストにバターを塗って、齧れば口に幸せが広がる。
……母の作る朝食もそうだったなと思い出す。
「おいしいね!」と、エノクが頬張りながら言う。
「こら、食べながら喋らない」と、エリカさんのお叱りが入る。
「ゴクリ……。おいしいね!」
「そうだな。今日も美味しい!」
エノクは次々と、朝食を平らげていく。
こいつめ、今日もおかわりをするつもりだな。
眠り姫の方はまだ、夢と現実の間を彷徨っている
僕は朝食を摂りながら、彼女の世話をすることにした。
「リュッカ、食べられそうか?」
ベーコンを切って、フォークで口元へ運ぶ。
しばらく反応しなかったが、匂いで気付いたのか口を開けた。
そこへ優しくベーコンを持っていく。すると、幼い歯が優しく捉えた。
それを見て、ゆっくりとフォークを引いていく。
彼女はモニョモニョと咀嚼を始めた。
「……おいひい」
「よかったな。ほら、次は目玉焼きだぞ」
住み込みとして、エリカさんから任された役割は色々とある。
こんな感じで、エノクとリュッカの世話をするのも、その一つだ。
僕にとっては仕事というよりも、弟と妹が出来たような感じだった。
「はい、あーん!」
前触れなく、エノクがリュッカの頬にベーコンをねじ込む。
僕のマネをしたがったのだろうか?
いずれにせよ、恐れ知らずの弟は、恐怖を知ることになる。
その瞬間、目を覚ましたリュッカがキレて、エノクの耳を引っ張る。
「いだダダダ!」
「食べ物で遊ばないでって、何度も言ってるでしょ……」
さっきまでの可愛らしい眠り姫は、低血圧の鬼姫と化していた。
「お兄ちゃん、助けてー!」
「はいはい、今助け……」
その時、リュッカと目があった。
据わった目が“手を出すな“と、言っている気がする。
……ここは、エノクに任せよう。
「エノク、頑張れ。僕にできることはない」
「えー!?」
エノクは困った顔でリュッカの次なる技を受ける。
自業自得だ。彼女の技を受け入れろ、エノク。
「二人はいつも元気ね。羨ましいわ」
横から二人を眺めるエリカさんは、微笑ましそうだ。
僕は朝食を済ませたので、空いた食器を洗い場に戻す。
食器洗いも任された仕事の一つだ。
しかし、洗剤とスポンジなんていう便利なものはない。
代わりとして使うのは“灰“だった。
火を起こした後に残った灰を手に取り、木皿に擦り付ける。
灰に汚れがまとわりつくので、それを水で流す。
これが“異世界“流の食器洗いであった。
「ごちそうさまでした」
「「「ごちそうさまでした!」」」
再び全員で手を合わせて、朝食の時間が終わった。
今日も賑やかな朝だったな。おかげですっかり目が覚めた。
寝ぼけていたリュッカも、エノクのおかげで目が覚めた様子だった。
エノクはさっきよりも耳が長くなっている気がする。
「それじゃあ、アダムはいつもの時間に畑の方ね」
「はい、わかりました」
「二人は部屋に戻って、学校の準備をすること」
「はーい」「……はい」
食器を洗い終えて、一旦、自分の部屋へと戻る。
部屋といっても、余っていた物置を『部屋』と呼ぶかは人による。
まあ「住めば都」という言葉もある。少し狭いが、じきに慣れるだろう。
洗って乾かしておいた作業着に着替えて、仕事の道具を用意する。
その後は部屋の中央に立って“ラジオ体操“をこなした。
外からエノクたちの声が聞こえる。村の学校に行ったようだ。
「さて、そろそろ行くか」
壁にかけた麦わら帽子を被り、部屋を後にした。
・・・・・・
「アダム、お疲れさま。お昼休憩にしましょう」
エリカさんが僕の方へ来てそう言う。
褐色の肌には大粒の汗が流れている。
麦わら帽子を被る彼女は一輪の花のようだ。
時刻はいつの間にか正午になっていた。
僕らの頭上から太陽が見下ろしている。
ちぎれた雲が、延々と青い空を漂っている。
「エリカさんも、お疲れさまです」
僕たちは小屋脇の井戸へと歩いた。
井戸には手押しのポンプが設置されている。
まずは呼び水をポンプ上部から流し込む。
そして、レバーを上下に動かすと、程なくして水が溢れ出した。
桶の中にどんどんと、綺麗な真水が満たされていく。
母屋から器を持ってきて、桶の水を掬った。
それをエリカさんへ差し出す。
「ありがとう。――ふう、生き返るわ」
その後に、僕も一杯の水を飲み干す。
新鮮な水を喉に流し込むと、全身の細胞が喜ぶ感覚を覚えた。
何でもない水が、こんなにも美味しいだなんて、以前なら知り得なかった。
平日の昼間は静けさが続く。
音を音で打ち消し合うような、現世とは明確に違う。
音のなる耳栓をしてたくらいだし。そのせいか、少し落ち着かない。
騒がしい仲良し姉弟は、今頃は学校を賑やかしているのだろう。
「農業には慣れてきたかしら?」
井戸の縁に腰掛けて、エリカさんが尋ねる。
僕も井戸小屋の影に入って、縁に腰を預ける。
「まだ1週間ですから、慣れないことばかりです」
「正直ね。辞めたくなった?」
「……辞めないのはわかってるでしょう?」
「冗談よ、怒らないで。おかげで助かってるわ」
「それなら、よかったです」
土いじりは、運動不足の学生にとってハードワークだった。
ひたすら鋤きと鍬で地面を耕して、7日間。
おかげで可愛らしかった手には、幾つも血豆の跡ができている。
「最初は細っこくて心配だったけど、案外、丈夫でよかった」
「自分で言うのも何ですが、驚いてます」
「農夫に向いてるのかも」
「気が早いですよ。でも、ちゃんと役に立てているのは嬉しいです」
「アダムは謙虚ね。うちの息子も見習ってほしいわ」
エリカさんは、後ろに括っていた髪を解く。
すると、長く繊細な白い髪が、風に揺れた。
この7日間で、僕はエリカさんという人を少し知った。
明るくて優しく、時には厳しい女性。
息子と娘を一人で育てて、守り抜こうとしている強い人。
そして、どこの誰かも分からない僕を助けてくれた恩人。
自然と彼女を尊敬するようになり、人として美しいと感じるようになった。
最近ハマっているエリカさんへの賛美は、こうした尊敬の念からきている。
「それじゃあ昼食にしましょうか。用意するから休んでて」
「いつもありがとうございます」
エリカさんは母屋へと戻って行った。
僕は地の果てまで続くかのような、平野を眺める。
視界の端には打って変わって、峻険な山々が連なっている。
その麓には黒々とした森があり、僕はそこからやって来た。
僕はまだシタッカ村の外れにある、ごく僅かな世界に生きている。
もうこのまま、小さな世界で生きるのも悪くない気がしはじめている。
“異世界転生“を選んだ時に、僕が望んでいたのは平穏だった。
今の生活がまさにそうだ。エリカさんが居場所を与えてくれている。
「アダムー、やっぱり手伝ってー!」と、エリカさんのお呼びがかかる。
「はーい、今いきまーす!」
腰を上げて、母屋の方に向かう。
色々と“異世界“への疑問は残るけれども、今の生活には充実感がある。
これも僕なりのやる直しなのかもしれない。今はそれでいいと思っている。