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不死ウイルス

「末筆ではありますが、松本様のより一層のご活躍をお祈り申し上げます」

 そのメール文を見た紡は、自殺を図ろうとしていた。ちょうど二百社目の面接に落ちたからだ。

 俺は、この世界から必要とされていないゴミなんだ。彼はそう思いながらも、百九十九社目までは頑張っていた。家族も応援してくれるし、このままニートになるのも嫌だったから、頑張ってきた。でも、次でダメだったら、もう死のう、と決めていた。

 紡はぼろぼろのアパートを出て、最後に落ちた企業のビルに向かった。外はうだるような暑さだった。しかし彼はわざわざスーツで向かった。

 入り口の警備員に「新卒採用の面接に来ました」と言い、エレベーターに乗った。迷わず最上階のボタンを押した。

 エレベーターから下りると、屋上に出る階段を探した。すぐに見つかった。鍵がかかっていなかったのは、単なる偶然なのか、はたまた運命なのか。どちらにせよ紡にとっては幸運だった。

 紡は屋上の手すりから身を乗り出し、下を見る。地上にはアリほどの大きさに見える車と、砂粒のような人間の姿がある。正直恐ろしかった。だが、その本能的な恐怖よりももっとおぞましいものを思い出した。この世界だ。不必要なゴミはゴミ箱に入れてさえもらえない。路上に放置され、踏みつけられ、転がされ、蹴飛ばされて、腐ることも出来ずにゴミ溜めに放置されるのだ。

 絶望的な考えに思考を走らせていると、空から急に夕立が降ってきた。まるで早く死ね、と天から言われているような気がした。紡は躊躇なく手すりを離した。空中に体が投げ出された。

 死ぬ間際によく走馬灯が見えるなどというが、そんなものは全く見えなかった。生きたいという本能が無くなったからだろう。一瞬の浮遊感の後、紡は夕立によって濡れたアスファルトの上に叩きつけられた。

 

 ざわざわと人の声が聞こえる。閉じた瞼の外から、光を感じる。スーツが雨で濡れていく感触が気持ち悪い。

「え?」

 恐る恐る目を開き、辺りを見回した。驚いた表情をした群衆が、周囲に集まってきていた。上を見て何かを説明している人、駆け寄ってきて大丈夫か、と声をかけてくれる人もいた。

 何十メートルもあるビルの屋上から落下したというのに、ありえない……。紡は混乱していた。

 すると、隣のビルの屋外ビジョンにニュース速報が流れた。速報です、と言ったアナウンサーが、動揺した顔で説明し始めた。

「先程降った夕立の成分の中に、『不死ウイルス』といわれるものが内包されていたことが発覚しました。これは世界全体に降ったと見られており、空気感染の為、マスクなどをしても対策できないもの、と専門家は話しています。繰り返します――」

「何だ、不死ウイルスって」「どういうこと?」

 聴衆は口々に文句を言い始める。だが、紡の落下の瞬間を目撃した人々は違った。彼を見て、ごくりと唾を飲み込んだ。落下の衝撃で大量出血し、真っ赤に染まったスーツを着ている紡が、そこに平然と立っていたからだ。

 

 あの夕立から一週間が経った。テレビをつけても、あの不死ウイルスのことしかやっていない。どこの誰の仕業なのか、自然発生したウイルスなのかはわからない。だが、どこのメディアでも、人間にはメリットのほうが多い、といった結論に至っている。ケガや病気を治す力があるからだ。難病や末期がんで入院している患者も、全員退院した。病院がつぶれるのも時間の問題だろう、と言われるほどだった。

 一般の人の意見でも、「病気にならないのは嬉しい」とか、「不幸な事故で死ぬことが無くなるのは、いいことだと思います」といった感想が多い。世間的には、不死は嬉しいことのようだ。

 紡は閉め切っていたカーテンを開け、朝日を浴びた。顔を洗いに洗面所に向かった。ひどい顔が鏡に映った。水を出そうと蛇口に手をかけた時、昨夜流し損ねた血が飛び散ったままだったことに気づいた。

 あの自殺に失敗した日。つまり、あの夕立以降、紡は、どうにかして死ぬ方法はないか試し続けていた。だが結局、死に至ることはできなかった。

 彼にとっては生き地獄も同然だった。あれだけ死にたいと思っていたのに、死ねない。死ぬ権利は、誰にだってあるはずなのに。

 居間に戻ると、テレビの前に座った。あれから一週間だというのにまだ同じ内容を延々と繰り返すニュースを、紡は死んだ目をしてぼうっと眺めていた。

 時計の針が十時を指すと、老人ホームのドキュメンタリーが始まった。百三歳を超え、もうすぐ老衰により亡くなる、と思われていたお婆さんが映っている。ベッドの上で寝たきりの状態だ。筋力は低下し、骨も脆くなっているので、もう自分の意志で動く、ということが一切出来ないのだという。認知症は治ったのだが、体の老いは進行し続けているそうだ。

「体は死を望んでるのに、なんで死ねないのか……」テレビの向こうに映るお婆さんは、そう、悲しそうに言っていた。

 

 いつの間にか紡は寝てしまっていた。目が覚めると、窓の外は橙色で染まっていた。点けっぱなしだったテレビから、不死ウイルス、という嫌な単語が聞こえてきた。

 その番組では『バイオ技術者』なるものが、不死ウイルスの研究をしているところを取材していた。どこかの教授が偉そうにインタビューに答えている。

「私たち研究者は、この未知のウイルスの発生場所の特定や、性質、構造などを研究しています。研究が進んで、この不死ウイルスをもっと知ることができたなら、もしかしたら『老化』までもなくすことができるかもしれません」

「それはすごいですね。では将来的に、人類が不老不死になるということもあるのでしょうか?」

「そうですね。可能性としては十分あると思います。そのためにも、これからもっとこのウイルスのことを細かく研究していく必要があります」

 ありがとうございました、とレポーターが締めくくる。コメンテーターもその意見に賛同している。街頭インタビューに答える一般人も、

「不死ウイルス? ああ、まあありがたいですね。病気とか事故で死ぬってことがもう怖くないので。保険とかも全部解約しちゃいましたよ」などと、気楽なことを言っている。

 紡はコンセントに挿し込まれたテレビのプラグを、力いっぱい引っこ抜いた。立ち上がって壁に拳を思いっきり叩きつけた。破れた拳がすぐに修復されていく様を見て、彼は思った。ふざけるな。何が不老不死になれる可能性がある、だ。死にたい人間もいるんだぞ。研究者もコメンテーターも一般人も、バカなのか。

 紡はそこで決心した。

 ――誰もやらないなら俺がやってやる。このウイルスを殺して、『死ぬ権利』を取り戻してやる。

 

 大学四年になると紡は就職活動の道を捨て、理系の大学院を目指して猛勉強し始めた。バイオ技術者になって不死ウイルスを研究し、殺す薬を開発するためだ。

 大学の単位は三年でほぼ取りつくしていたので、最後の一年はほとんど大学には行かなかった。家でひたすら参考書とにらみ合っていた。

 時には勉強している意味がわからなくなり、死にたくなることもあった。実際に自殺を試みたのは何回だろうか。だが紡はその度に、不死の体に『死ねない』ということを理解させられた。

「死にたい、死にたい。……ああ、そうだった。今俺が勉強してるのは、死ぬ為だった。このクソみたいな不死ウイルスを殺すためにやってるんだ」

 一年の浪人生活を経て、紡はバイオ技術者の資格が取得できる大学院に進むことができた。文字通り死に物狂いの努力があったから成せたことだ。

 大学院に入ってからは目的がしっかり定まっていたこともあり、勉強することが苦ではなくなっていた。むしろ『死』という唯一の目標が近づいているのを感じ、いっそう勉学に励むようになった。

 二年間の大学院生活はあっという間に過ぎ去り、紡はバイオ技術者の資格を手に入れた。就職先は、その大学院に決まった。授業の傍ら、研究を進めていった。

 研究者たちの中では、この未知のウイルスを改良して老化を完全に無くせないか、とか、逆に若返らせることはできないか、などの研究を推し進めている人たちはいたが、不死ウイルスを殺そうとする人はただの一人もいなかった。

 だが、紡はずっと疑問を抱いていた。なんで死を無かったものにしようとしているんだろう、と。世の中には死にたい人だってたくさんいる。仕事に疲れた人、人生に疲れた人、煩わしい全てから解放されたい人、ベッドの上で寝転ぶしかできない老人。そして就活鬱になった俺もそうだ。『死ぬ権利』は、理不尽に奪われていいものではない。

 

 紡が不死ウイルスを研究し始めてから一年が経った頃、マスコミが取材を申し込んでくるようになった。インタビューが新聞に載ったり、ニュースで紹介されたりもした。当然、不死ウイルスを殺す研究には反対する声が上がった。ニュースや討論番組でも、反対する声が多かった。世間的には不死ウイルスは神からの恩恵だと思われているようだ。

 一方で、SNSでは自殺願望者たちの意見がちらほら見られた。匿名性があるため、素直に意見を言えるのだ。超高齢の親を介護する人たちの意見もやはりあった。

 その中でも特に、超高齢者である自分の親を、安らかに死なせてあげたいという想いは徐々に広がっていった。ほぼ何もできない両親を一人で介護する大変さや、植物状態で辛うじて息をしている老人の姿などがテレビで公開され始めたからだ。それを見た人々は、自分の将来の生活苦や、親の苦しみを想像し、不死ウイルスの厄介さを認識していった。

 不死ウイルスを殺すことに賛同する人が反対派を上回るまでは、それほど時間はかからなかった。

 やがて国が正式に、不死ウイルスを殲滅するための薬を開発することを認めた。

 紡はそうした世情は知ってはいたが、あまり気にしていなかった。何を言われても研究は水面下で進めていたし、完成すれば自分一人で薬を飲めばいいと思っていたからだ。

 それからすぐに、紡は抗不死ウイルス薬を完成させた。

 とはいえすぐに薬局で売るわけにもいかない。他人に飲ませることも可能だからだ。それですぐに死ぬわけではないが、不死のウイルスは死滅してしまう。それから従来の方法で殺害される可能性も十分考えられる。よって、日本の信頼できる研究所や国立病院に限って、取り扱うことが許可された。

 開発者である紡は、副作用や開発者としての責任など色々な観点から、しばらくの間薬を飲むことを禁じられた。その通達を国から受けた彼は、もちろん悔しかった。自分が真っ先に死にたかったからだ。だがそれと同時に、死を望む人――同志に一目会いたい、という気持ちもかすかに胸の内に生まれていた。

 まずは、日本の超高齢の老人が各施設に運び込まれる予定だ。家や介護施設でも、周りから「限界」と言われ続け、自らも『死』を求めている老人に限り、薬を処方した。家族が来て持ち帰る行為は厳禁で、本人を連れてきてその場で飲むことが義務付けられた。

 紡の大学院にも大勢の超高齢者が搬送されてきた。専用の個室で一人一人が薬を飲んでいく。体の機能が死んでいる老人たちは、その場で崩れ落ちるように亡くなっていった。

 紡も何人もの老人の最期を見届けた。決まって彼らは、「ありがとう」と感謝の言葉を残して逝った。紡は自分の心がなぜか震えるのを感じた。

 優先された高齢者の次は、重度の鬱病患者が訪れた。老人とは違って体は衰えていないため、薬を飲んだだけでは死なない。だがおそらく、いや必ず、近いうちに自らの命を絶つのだろう。紡はそう思った。

 自殺志望者も来た。随分若い人もいた。紡に会った人は全員、心の底から感謝を伝えていた。

「この薬を作ってくれて、本当にありがとう。あなたのおかげでやっと死ねます」疲れ切った様子の二十代半ばの男が言った。

 それを聞いた紡は、心の奥からなにかが、じわ、と広がった気がするのを感じた。

 自殺の権利を他人に与える、つまり自分が殺人を間接的に行うようなものだ――そんな考えも頭の片隅にあった紡だったが、患者の感謝の言葉を聞く度に、その罪悪感を超える何かが自分の中に生まれるのも感じていた。

 抗不死ウイルス薬が日本の死にたい人たちに渡り切った後は、外国人も来日した。世界には死にたい人がこんなにいたのか、と紡は少し悲しい気持ちになった。

 約半年かけて、現段階で死にたいと思っている人々に薬が行き渡った。反対派のマスコミや市民団体に叩かれたりもしたが、紡はなんとか耐えることができた。死にゆく人々の「ありがとう」が彼の中に生きていたからだ。

「『死ぬ権利』は、人類皆、平等にある」

 むしろ、テレビでそう宣言したくらいだ。生きているほうが辛い人もいる。死にたい時に死ねないなんて、そんなの間違っている。彼の考えは次第に世界の人たちの心を動かしていった。

 それから彼は長い時間をかけて、全員とはいかないが、亡くなった方の葬式や墓参りをして回った。死にたいと願った同志たちの弔いは、薬を作った責任者として、しっかりと行う必要がある。薬を作ったことへの負い目などではないが、紡はそれが絶対に必要なことだと理解していた。命は重い。

 

 ようやくマスコミが紡の周りに現れなくなったころ、彼は薬を飲んだ。服薬しただけでは死なないが、死ぬ権利は得ることができる。これでいつでも死ねる。やっと、やっとだ。

 開発者として国から言いつけられていた色々なしがらみから、遂に解放されたのだ。

 長かった死への道のりがとうとう終わりを迎えた。そのことに紡は歓喜した。彼は大学院で薬を飲んだ後、研究室の自分のデスク周りを綺麗に掃除し、辞職願を出した。家に戻る途中で、缶ビールと焼き鳥を買った。

「最後の晩餐だ。楽しもう」

 紡は自分の成し遂げた偉業と達成感、そして何より、もうすぐ目標にしてきた『死』を手に入れられることに興奮していた。あの夕立に含まれていた不死ウイルスが、彼の自殺を妨げたあの日から五年も経った。それがついに終わる。

 テーブルの上に冷やした缶ビールと温めた焼き鳥を用意した。いただきます、と言い、缶を開けた。中から少し泡が吹き出してくる。その泡に急いで口をつけ、焼き鳥に豪快にかじりついた。紡の目からは自然に涙がこぼれていた。

 翌日、紡は数年前に就活鬱で自殺をしようとした、あのビルの屋上にやってきていた。これから死ぬというのに、空には雲一つ無かった。

 あの時のように、手すりから身を乗り出して下を見た。アリの大きさほどの車と、砂粒のように小さい人が動き回っている。あの中にも死にたい人がいるんだろうな。毎日仕事ばかりしてたら、死にたくなる時もあるよな。下を歩いている人を少しの間眺めていた紡は、ふと、薬を飲んで死んでいった人たちの言葉を思いだした。

 

 死なせてくれてありがとう。あなたのおかげでやっと死ねます。この薬を作ってくれてありがとう。ありがとう。ありがとう……。


「ありがとう」

 紡自身も気づかぬまま、そう口に出していた。その瞬間、涙がぽろぽろとこぼれてきた。

「えっ?」

 なぜ突然涙が流れたのか、彼は理解できなかった。だが、『ありがとう』を声に出したとき、心の奥底から広がる微かな熱を感じた。

「ありがとう……ありがとう、か……」

 思えば大学時代、誰かに心からのありがとうをもらったことがなかったのではないか。誰かに何かをしてあげたことがなかった。ずっと独りよがりで生きてきた。就活でも、人の役に立ちたい、という思いが無かったから落ち続けたのだろうか。ずっと自分のことだけを考えて生きてきたからダメだったのか。誰かを助けて、何かの役に立って、周りの人を大切にしてこなかったから、感謝の気持ちをもらえなかったんだろうか。

 ――だから、『ありがとう』をもらえたあの時、あんなにも嬉しかったのか。

 誰かの役に立って、みんなを助けて、お礼にいっぱいありがとうをもらう。人生って、それだけでよかったのか。いや、それこそが一番大事なことだったのか。

 それに気づいた彼の顔は、自然と前を向いていた。そして清々しい声で言った。

「また誰かの役に立ちたい」

 自分の口からこんな言葉が出てくるなんて、信じられなかった。そんな驚きと共に、生きたいという活力が体の奥から湧いてきたのがわかった。

 あんなに死にたいと思っていたはずなのに、今はもう死にたくない。体が死を拒絶している。

 急激にこの場所にいるのが怖くなった紡は、手すりからゆっくりと降り、屋上の床に尻もちをついた。

 その後落ち着いてから家に帰った紡は、温かい風呂に入った。さっき死を目の前にして考えたことを、もう一度整理した。

「俺はこれから何をしていきたいか――」

 

「死にたい人は、苦しみ続けている。だから死ぬときだけはせめて楽に逝かせてあげたい」

 数日後、堂々と答える紡がテレビに映っていた。紡は研究者として新たに、『安楽死薬』を開発・普及させたいと語った。

「誰かの役に立ちたい。それは、死を望む人にも、です」

 そう話す紡の表情は、とても就活鬱で自殺しようとした人には見えなかった。瞳はキラキラ輝き、全身からは生きる力が溢れ出ていた。

 紡はその後の生涯を、八十二歳まで全うした。最期は老衰で安らかに逝った。

 歴史を変えた偉人として、国葬が執り行われた。


おわり

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