第18話 幻妖の森の迷子たち(1)
美しい森だった。木々の枝は撓り、色鮮やかな葉が揺れる。ここを森と呼んでもいいなら、本当に美しい場所なのだが……。
転移によって出現した場所は、おとぎの国でした。そんなナレーションが似合う森で、美女が己を抱き寄せる美形の手を払いのける。
「ジル?」
ここはどこだ――問いただす声に、黒翼を隠した青年は小首を傾げた。不思議そうに周囲を見回し、何かに納得した様子でぽんと手を叩く。
「ああ、わかった。『幻妖の森』か」
迷ったみたいだ。平然と告げる彼の後ろを、小躍りしながら茂みが通り過ぎて行く。そう、ここの木々は動物のように歩いて移動していた。根を大地から引き抜き、右へ左へ木漏れ日を求めて歩き回るのだ。
大木はさほど動かなくても上空で陽光を浴びられるため、滅多に歩き回らないが、小さな茂みや若い木々は勢いよく根を引き抜いて移動する。稀に人間や動物を襲って、その体液から栄養を取る植物が存在するからか。動物や魔物は見当たらなかった。
基本、この森では光合成が活発になる昼間は植物が、太陽光が消えて植物が大人しくなる夜間に動物が活動する。昼夜の住み分けができていた。
「とりあえず、邪魔になるから日陰に移動しよう」
言われた内容がおかしい。まるで大きな都の街道に立ち竦んでいるみたいな言い方をされたが、ここは森の中である。本来は邪魔になる筈がなく……。森の理屈から言えば、昼は植物優先の時間帯なのだが、ルリアージェが知る筈はなかった。
頭を抱えて溜め息をついたルリアージェは、気分を切り替えることにした。つまり、諦めて現状を楽しむという意味だ。見たこともない色の植物が目を楽しませてくれる。
「青い銀杏は初めて見る」
「あれは毒があるから、手で直接触れない方がいいぞ」
「あっちの桃色の大きな葉は?」
「刺激を与えると動物を殴り殺すヤツだな。葉よりも枝の動きが凄い」
「じゃあ、あれは?」
黄色い木の実を指差す。
「凶悪な臭いがする汁を噴く。臭いを追って攻撃してくるから、木の実に絡む蔦が要注意だ」
物騒な植物しかない。改めて幻妖の森の噂を思い浮かべた。確か、強力な魔物が支配する森だと考えられており、剣士や魔術師も近寄らない呪われた場所とされる。
「入ると二度と戻れず、植物に血を吸われ、多くの死体が転がる、気狂いの森……だったか?」
指折り数えてみるが、本当に嫌な噂ばかりだった。よい話がひとつもない。溜め息を吐いたルリアージェの隣で、払われた手を再び伸ばして抱き寄せる懲りない男が飄々と答えた。
「『迷宮』のひとつだからな。仕方ないだろ」
聞き覚えのない単語にルリアージェがジルを見上げる。肩を抱き寄せる手を摘んで、さりげなく落とした。これだけの美男美女が共にあって、ここまで麗しくない光景も珍しい。
「迷宮とは?」
「人間には伝わってないのか……まあ一言で表すと『力ある何かが封印された場所』だな。大災厄と呼ばれたオレを封じた金剛石を奉るテラレスも、迷宮扱いだったぞ。 だから、魔性がほとんど近寄らなかっただろう?」
言われて、かつて学んだ歴史を思い出す。1000年前のアティン帝国滅亡後、4つに分かれた国はさらに分裂して9つになった。その間に様々な災難や天災、魔性による被害が記録されているが……確かにジルの言う通り、テラレスに大きな災いはない。
他国から攻め込まれることも少なく、豊かな国だった。あの平和は、そんな意味合いがあったのか。
「戦争も人が起こすんじゃない。魔性が暇つぶしに駒を操った結果なんだよ。だから迷宮には手を出せなかった」
とんでもない発言だが、ジルのいうことは事実なのだろう。彼が嘘をいう必要はないし、今回の騒動を見て気付いたのだ。魔性は人間を簡単に滅ぼせる。だからこそ滅ぼさないように調整しているのだ、と。
そこに何らかの意思が働いているとして、人間にとって不愉快であっても、不利ではなかった。操られて戦う者もいれば、抗って平和を求める者もいる。すべてが魔性の思い通りになるなら、彼ら自身が攻め込んでくる災いは存在しないのだから。駒と考える人間が動かない時に、魔性自身が直接動くのだ。
テラレスでは聞かなかったが、他国は魔性に攻め込まれて戦った経験もあると聞く。
「おっと」
ジルがルリアージェの右手を掴んで、ぐいっと引き寄せる。すぐ後ろを人間より大きな木が走り抜けた。青い幹に赤い枝、緑の葉をもつ不思議な木は、少し先の陽だまりで再び根を張る。しばらく陽を浴びると、上に鮮やかな紺の花を咲かせた。葉の影なので黒にも見える。
「キレイだな」
「あの花は食べられる」
「……え?」
食べられる色に思えなかった。ほぼ黒に近く、ビロードに似た厚みのある花びらは毒々しい。よく見れば、斑模様に紫と紺が混じっているようだ。
「あれが……か」
「そう、意外だろ? たぶん捕食されないように擬態してる。煮ると甘くて、柑橘系の果実に近い香りがするぞ」
ルリアージェが思い浮かべたのは、柑橘類のジャムだった。だが黒色の花から、爽やかな柑橘の味が想像できない。最終的に脳裏に浮かんだ物体は、黒いタールのような液体だった。
「食べたいなら作ってやろうか?」
簡単そうに言うが、植物の周囲はうねうね動く蔦や触手みたいな植物が蠢いていた。あれらを避けて取りに行くのも大変なら、採取時に木に襲われない保障もなかった。帰りに後ろから締め付けられたら最悪だ。
そもそも想像通りの黒いタール状の何かが出来上がるなら、危険を冒す必要があるだろうか。
無言で首を横に振るルリアージェに対し、ジルはけろりとした様子で「そう? 美味しいけどね」と妙にずれた発言をしている。人とは明らかに感覚が違う。
「ところで……なぜここに来たんだ?」
「だから、迷子」
最初の疑問に立ち戻ったルリアージェの銀髪を指で弄りながら、ジルは苦笑いする。花で話を逸らしていたのだと気付いても、容赦してやる理由にならなかった。
「迷子? 転移先の状況は分かっていた筈だ」
「うーん、転移の座標計算は合ってるんだけど……何ていうのかな。1000年の間に森が移動してた」
意外な告白に、ルリアージェは言葉を失った。
「オレが知ってるこの場所は、湖のほとりだったんだよね」
妙に人間くさい仕草で小鼻をかいている姿は、アティン帝国に続いてアスターレンを滅ぼしかけた『大災厄』というより、ちょっとドジだが顔のいいお兄さんだった。もちろん、中身がそんな可愛い表現が似合う存在でないとしても。
「つまり……」
言葉を選んで現状を認めようとしないジルに、ルリアージェは最後の答えを求める。その後ろをレインボーの茂みが走り、茂みを追いかける真っ赤な蔦が伸び、さらに触手か大きなミミズのような枝が纏めて茂みを捕まえていた。ある意味カオスな状況が繰り広げられる空間で、ルリアージェは最終通告を待つ。
「うん、オレの知る座標は一切当てにならない」