第17話 歪んだ悪意(1)
繋いだ手がぴくりと動く。期待を込めて輝く青紫の瞳の先で、銀髪の美女が細い息を吐き出した。目覚めの兆候に手を握り直す。銀の睫毛が揺れて、ゆっくり開いた。
「リア……」
そっと声をかければ、開いた蒼の瞳が閉じてしまう。透明度が高い南の海の色を宿した瞳がもう一度覗き、ぱちぱち瞬きを繰り返した。
「ジル? ……まぶしい」
「ああ、ごめん」
彼女が名を呼んだ。それは記憶が戻ったという意味で、嬉しさに頬を綻ばせながら翼で影を作る。顔が影になったことで目を開いたルリアージェは、黒い翼に息を呑んだ。
「翼……っ!」
身を起こすが、いきなりすぎて軽い眩暈に倒れかける。ずっと意識がなかった身体は、本人が思う以上に疲労していた。緊張が続いた状態も、無理やり使った魔術による魔力の回復も、まだ万全の体調にはほど遠い。
「ルリアージェ、平気? 具合悪いのか」
心配そうに抱きとめられ、腕の中で頷く。眩暈に耐えて開いた目は黒い翼を不思議そうに見つめた。息をしていないんじゃないかと不安になるほど、じっくり眺めたあと、ルリアージェは呟く。
「翼だ」
「それより辛くないか、吐き気とか」
「触っても?」
かみ合わない会話にジルの溜め息が落ちる。翼が珍しいのはわかるが、ここまで興味を示されるのは予想外だった。
「うん、わかった。具合は悪くないんだな。……触っていいよ」
具合が悪ければ言うだろう。興味が先に立つなら、好きにさせた方が早い。諦め気分で許可を出すと、いそいそ座りなおしたルリアージェの白い手が伸ばされた。
恐る恐る触れる手が擽ったいのだが、ジルは苦笑いしたまま動かない。広げた羽を掴んで覗き込んだり、付け根の当たりを撫でてみたり、思う存分確認した彼女が最後に行ったのは――。
「痛っ」
「……本当に生えてる」
「いや、先に謝って欲しいんだけど」
大陸を統一支配したアティン帝国を一夜にして滅ぼした大災厄の翼から、羽根を引き抜くという暴挙。しかも、さきほどアスターレン国の首都を壊滅状態にした魔性相手に、とんでもない行動だった。
さすがに文句を口にするが、ジルはそれ以上咎めようとしない。自分に甘い彼の性質を理解しているルリアージェは、手の中の黒い羽根を弄りながら「痛いのか?」と酷い質問を寄越した。
「痛いさ、ルリアージェだって耳千切られたり、大量に髪を引き抜かれたら痛いだろう」
たとえが大げさだと笑うルリアージェだが、実際痛覚が鈍い魔性のジルであってもかなり痛いのだ。思わず声が出るくらいには痛かった。抜かれた場所をさすって確認しながら、ジルは話を誘導し始める。
「次は北へ向かう? それとも西のシュリ? もう少しすると、サークラレラで大きなお祭りがあるらしいぞ」
「……」
眉を顰めたルリアージェが無言で見つめてくる。
「どうした?」
「……アスターレンはどうなった?」
記憶を戻すついでに、ここ2日分を消してもらえばよかった。解けたままの黒髪を高い位置で束ねて紐で括りながら、舌打ちしたい気分を隠して笑顔を作る。
「さあ、知らないな」
「嘘だ」
断言されて観念する。
「嘘じゃない。オレがここに転移した後のことは知らないってだけ」
魔性は基本的に嘘を吐かない。人より話術が巧みで、真実を織り交ぜながら相手を誘導して話を逸らすことが得意だった。嘘を吐く行為は、己のうちに傷を作り出す。その傷は嘘がバレるまで疼くため、彼ら魔性は嘘を使わないのだ。
子供が親に隠し事をして罪悪感が疼くのに似た状況だが、普段痛みをほぼ感じない魔性にとって、僅かでも痛みを感じる嘘は鬼門に近かった。
「アスターレンの王宮に戻るぞ」
「なぜ?」
まったく悪気なく、素直に聞き返すジルに驚いた。街や王宮を破壊しながら戦い、人々を傷つけ殺し、国の中枢を揺るがしながら、ジルは何も悪いと感じていない。罪悪感や後ろめたさも一切ない。ただ、純粋にルリアージェの「戻る」という発言の理由を聞き返した。
「まだ助かる人もいるだろう。私の魔術が助けになる」
少しでも助けられる人を助けたい。死ななくて済む人がいるなら、魔力が尽きるまで魔術を行使するつもりだった。ましてや原因は天災ではなく、人災なのだ。
魔性であり『帝国滅亡の大災厄』として封じられたジルを解放したルリアージェは、己にその罪があると知っている。ジルがいなければ、あの魔性達はアスターレンを襲わなかった。
記憶を失っていた間のことも思い出せる。ジルが暴走した原因はルリアージェの記憶喪失で、己を忘れられたという現実だった。
おそらく引き離されていた時間に魔性達ともめたジルは、追っ手を王宮で撃退したのだ。街を破壊して王宮へ攻め入ったのも、ルリアージェが王宮にいた所為だった。
追われる立場を自覚するルリアージェは、自ら危険に近づくわけがない。絶対に王宮や王族に近づいたりしなかった。それが王宮内からルリアージェの魔力を感じたため、彼は暴走したのだろう。
贖罪なんて気取るつもりはない。だが、助かる人を見殺しにして逃げるという選択肢は、ルリアージェの中になかった。
「助けてどうするの?」
「どうする、とは……」
問われた意味がわからず、ルリアージェはジルの青紫の瞳を見つめる。結い終えた黒髪を背に放ったジルが、まっすぐに見つめ返した。
風が頬を撫でて過ぎる。
「今から戻って、人間を助けたとする――でも全員が助かるわけじゃない。恨まれるし狙われる。助けた奴だって刃を向けるかも知れない。なのに、助けるのか?」
人と魔性は違う。ずっとそう思ってきた。
彼らに人間がもつ情緒や心は足りなくて、圧倒的な力を持った幼子の癇癪で人を殺す……残虐で、未熟な精神の持ち主だと。しかし今、ジルが示した懸念は人間を深く理解した上での発言だ。
痛みに呻く状況で助けられ、でも家族が隣で全員死んでいたら――どうして家族を助けてくれなかったと恨む。なぜ自分だけ助けたのだと罵るだろう。助けられた感謝はきっと、その場で感じる絶望にかき消されてしまう。
長く生きたから人を理解するのか。理解した上で、ここまで無邪気に他人を切り捨てるのは、彼らの精神が未熟な所為ではなく……単に興味がないだけか。
身勝手で自分を中心に世界が回る。人間が届かない強大な力を行使する魔性にとって、世界は本当に自分を中心に回せるのだ。