第14話 帝国の遺産(4)
黒衣の魔性ジルが降らせた雨は止んでいた。炎を消す役目を終えた雨が消え、午後の陽光に虹が輝く。足元の光景を知らなければ、穏やかな午後の風景だ。
目覚めないルリアージェから手を離すことなく、ジルは残酷な遊びに興じた。
水で作り出した針を血に溶かし、穴の開いた彼らの身体を眺めながら小首を傾げ思案する。右手の指で唇に触れ、機嫌よく笑みを浮かべた姿は、無邪気な子供だった。
悪びれた様子のない彼に、周囲の恐怖心は募る。噴水を盾にした形で回り込んで逃げ出す人間を一瞥するが、ジルはそのまま見逃した。
捕まえる気になれば一瞬で、今は目の前の獲物でどう遊ぶかを優先したい。
「穴を開けたのだから、塞ごうか」
何で塞ぐのか――ジルは言葉にしない。痛みや恐怖に疎い魔性に、死神と呼ばれた己への畏怖を植えつける手段として。黒い翼を羽ばたかせて広げた。
かつて同じように振舞ったことを思い出し、1000年経っても変わらない在り様がおかしくなる。
違うとすれば、ジルを止められる者が唯一存在している事実――左腕の美女の存在だった。彼女が目を覚ませば止めようとするだろう。だから、彼女が目を覚ますまでに終わらせるつもりだった。
右手で魔法陣を描いた。簡単そうに複雑な図を描いて血塗れの魔性の下へ移動させる。禍々しい黒い光が魔法陣を覆い、怯える魔性の足元に赤黒い蔦が生えた。
葉も花もない蔦は魔性に絡みつき、彼らの身体に開いた穴を利用しながら養分を吸収し始める。腕の穴を通り抜け、腹部の傷から葉を生やす。そこに、苗床に対する感情は存在しない。
「いやあぁ!」
植物ゆえの無慈悲さで、肉体を裂き精神を砕いた。細い針があけた穴を棘が広げ、さらに魔草が食い荒らす。体内から己を食われる恐怖と激痛が、魔性たちの余裕を奪った。
吹き出した血に見向きもせず、蔦は獲物の魔力だけを吸い取っていく。
「やめろっ」
叫ぶ緑の少年は、自分だけが無事な事実の意味を思い知る。同じ敵を攻撃した身でありながら、圧倒的なジルの力に翻弄され、仲間が弄ばれ殺される様を『見届ける』役目を与えられた。逃げる権利はなく、目を逸らすことができない。
彼と彼女が苦しみ、痛みに泣き叫びながら吸収されて滅びるまで――。
「ラフレアを識っているのか? 博識だな」
絡め取った獲物の魔力を吸い取り、ラフレアの葉が広がる。原始のシダに似た赤黒い葉は次々と蔦の表面を飾り、最後に上に花が咲くのだ。
とても美しい純白の花を開き、獲物に根を絡ませたまま、吸い尽くした魔力を実にして落とす習性があった。
魔力の実は小粒で、新たな獲物を見つけるまで眠り続ける。本能だけで生きるラフレアは魔性や魔物にとって忌むべき存在だが、蔦に魔性を捕らえる高い能力はなかった。
故に、魔性にとって脅威でも何でもない。
だから名を覚える必要もない植物だった――通常は。
不文律を破るラフレアは上質の餌に歓喜するように葉を増やし、一気に花をつけた。人一人乗れそうな大きな花が、風のない球体の中で開く。足元に転がる魔性はまだ生きているようだった。
生きながらに生命力の源である魔力を抜かれる。一撃で滅ぼすことが出来るくせに、ゆっくりじわりと死を意識させた。足元の雑草に過ぎないラフレアに縊り殺されるなど、魔性である彼らには悪夢だ。
人間であったなら、もっと早く死ねただろう。魔力の保有量が違いすぎた。潤沢な魔力があるからこそ、最初の開花で滅びずに生き残ってしまう。そして、再び芽吹いて花が咲くまで……苦しみながら、痛みを感じつつ耐えなければならない。
目の前に迫る滅びは、同時に彼らの救いでもあった。
「もう……やめてくれ……」
必死で懇願する緑の魔性に、羽ばたいて顔を寄せたジルが声をかけた。大きく広げた漆黒の翼が、まるで悪魔の手のように彼に影を落とす。
「お前は、そう言われてやめたか?」
優しい声で、絶望の言葉を……。
魔性である以上、他者を傷つけた経験はある筈。命乞いをされて、弱者を許し見逃したのか? あるわけがない。強い立場の者が、足元の虫や雑草を踏みつける行為を悔やむか? それもない。
己の立場に置き換えればわかるだろう。
目を見開いた少年へ、心底楽し気に笑う。背を滑った黒髪を指先で弄りながら、1/3を血で満たした球体の中へ視線を戻した。
「ほら、また花が咲くぞ」
新しい花が開き、すぐに萎んで中央の黒い実を落とす。すぐに芽吹いた新たな蔦が、悲鳴を上げて逃げる魔性を貫き、肉体を肉片に変えながら絡んだ。顔も手足も形が分からなくなるほど崩れ、彼らは最後の魔力が尽きるまで植物に嬲られる。
最後の命の一滴まで搾り取り、花はほんのりピンク色に染まった。魔草ラフレアが齎した残酷な饗宴に、ジルの笑みが深くなる。
愚かにもオレに逆らった魔性は片付けた。彼らの残骸でしかない血と肉片を包んだ結界を、ぎゅっと握った仕草で消滅させる。球体を消した煉瓦の敷石に赤は残されていなかった。
「さて、これで宴は終わりだ。お前は解放してやろう」
目覚めなかったルリアージェの額へ褒美のキスを落とし、無造作に右手を振った。羽虫を払うように軽い動きで、緑の魔性が転送される。ここではない、どこか離れた場所に送られた魔性は安堵するのか、失った仲間に涙するのか。
「残るは――人間か」
ルリアージェの治癒によって命繋いだ人間たちを見つめ、ジルは眉を顰めた。
滅ぼしてしまいたい、
殺したい、
焼き尽くしたい。
左腕の中でぐったり身を任せる眠り姫の存在がなければ、きっと思うままにアスターレンを滅ぼした。だが、彼女の存在と記憶の喪失がなければ、この国に見向きもしなかったことも事実だ。
複雑な感情に眉を寄せたまま、美貌の魔性は視線を左腕の美女に向けた。閉じられた瞼の下の蒼い瞳が無性に見たい。反面、自分を認識しない彼女の眼差しに苛立つだろう。