第13話 アスターレン王宮炎上(3)
バンッ!
全力で虹色の球体を叩くルリアージェが、拳の痛みに顔を顰めた。すると、ジルはようやく人間じみた表情を浮かべる。まるで己の手が痛んだかのように眉を寄せて、ルリアージェを捕らえる玉へ手を滑らせた。
「やめろ、お前の手が傷つく」
ようやく自分に興味が向いたと気付いたルリアージェが騒ぐ。中で必死に叫び続けた。その言葉に耳を傾けていたジルは、鼻に皺を寄せて不愉快そうな顔をする。
「許せ、と? お前を傷つけた輩を生かす必要はない」
言い切ったジルへ、再びルリアージェが言葉を向け……祈るように両手を組んだ。蒼い瞳が僅かに潤むのを見て、さすがに彼も考え直す気になったらしい。
「わかった、とりあえず出してやる」
言うことを聞くと約束するわけじゃなく、ジルは言葉に逃げ道を用意して左手を球体に這わせた。
音もなく消滅した虹色のボールから解放されたルリアージェは、咄嗟に目の前の手を掴む。ジルは左手でルリアージェの手を握ると、引き寄せて右手で腰を抱いた。
「いいか? 離すと落ちるぞ」
脅す必要はない。離したら落ちると彼女も理解できていた。足元には何もないのだから……。
手を繋いだまま、ルリアージェは目の前の惨劇を見回した。
美しい王宮は焼け落ち、すでに半壊している。逃げ延びた王族は噴水の前で怯え、王太子が庇うライオットは無残に右手を斬られた。魔術師達の必死の働きで痛みと出血は抑えたようだが、元に戻すのは困難だった。
「頼む、もうやめてくれ」
懇願するルリアージェに視線を向けるが、黒髪の魔性は浮かべた笑みをそのままに首を横に振った。
逆に不思議そうに問い返す。
「なぜだ?」
「なぜ、とは……?」
ルリアージェは言葉に詰まる。破壊された街は、きっと多くの人が傷つき喪われただろう。王宮を燃やされた国の行く末も心配だし、自分を助けてくれた医者や心配してくれたライオットの命も助けたかった。
だが……その心境をまったく理解していない顔で魔性は尋ねるのだ。
人の痛みなど知らない、気遣う必要もなく、思うままに力を揮う――それこそが魔性として当然だった。
踏んだ足元で潰れた蟻を嘆く人間がいるか?
邪魔な羽虫を叩く人間がその命を惜しむか?
素直すぎる疑問に、ルリアージェは唇を震わせた。
何と言葉をかければいいのか、わからない。どう説明したら彼は理解するだろうか。
「私が嫌だから……私を助けてくれた人が傷つくのは見たくない」
正解ではないだろう。彼はこんな言葉で止まってくれない。そう思うのに、懇願することしか出来なかった。
望みを口にして待つ。
「ルリアージェ、お前が望むのか?」
ルリアージェと呼ばれて、アリアより耳に馴染む。これは確かに自分の名前なのだ。そう思えた。同時に、記憶を失う前に彼と出会っていた事実を理解する。
こんな膨大な魔力を自由に扱い、街を平然と破壊し、国を敵に回しても意に留めない存在が――私の隣にいたのだ。
囚われたわけではないだろう。彼は私の意向を、多少なりと汲もうとしてくれる。
だったら止められるのでは?
頼めば、彼は聞いてくれるかも知れない。戦っても勝ち目はない。これほど強大な力を揮う存在に、人間が勝てる筈がなかった。
だから望みがあるならば、それに縋るだけ。繋いだ手を強く握り、彼の注意を惹きつける。
「ああ、私が望む。だからもう止めてくれ」
ふわりと彼の表情が和らいだ。
「記憶もないのに、このオレを止められるつもり?」
辛らつな言葉を、柔らかい笑顔で吐かれて息を呑む。白く冷たい手が伸ばされ、頬を滑るように撫でた。まるで死神に見初められたような……本能的な恐怖が背を凍らせる。
怖い。
「……っ」
強張った喉は声を出せず、ただ頷いた。誰も殺さないで欲しい、もう止めて欲しいのだと必死さを滲ませたルリアージェの眼差しを受け止め、ジルは紫の瞳を見開く。
「へえ、こんな震えるほど怖いくせに……逆らうの?」
「……っ、彼女から手を離せ! 化け物がッ!!」
足元から聞こえた声に、ルリアージェの肩が震える。何もない足元は不思議と、透明の床を踏んでいるような感覚があった。その透明の板の下で、青ざめたライオット王子が叫んでいる。
傷の痛みは麻痺しているのだろう。隣で必死に治療を続ける宮廷魔術師の使う治癒は、中級程度だ。痛みの緩和や止血程度が精一杯だった。失った出血による体温の低下や倦怠感は、今も彼を蝕んでいる。
ダメだ、今刺激してしまったら!
王族であるライオットを殺されるわけにいかない。焦ったルリアージェがジルの腕を強く掴んだ。指先ではなく彼自身に手を伸ばし、必死に言葉を探す。
「頼む、私が代わりになるから……やめてくれ」
ふーん……否でも応でもなく、考え込むような声が漏れる。じっと見つめる先で、黒髪の魔性は片手を掲げた。その指先がライオット王子を示す。
「あれの命乞い、か?」
頷いてはいけない。本能的にそう悟った。不満そうに唇を尖らせて待つ魔性は、きっと答えをひとつ間違えば王子を殺す。答えが気に入らなければ、周囲を灰燼に帰すだろう。
「……私のためだ」
少しだけ、魔性の纏う空気が和らぐ。それはルリアージェが選んだ答えを、ジルが気に入った証拠だった。
「な……っ、弟を見捨てるのか」
王太子の呟きが聞こえ、ルリアージェはぎゅっと左手で胸元を掴んだ。用意されたピンクのドレスはライオット王子が選んだもので、それを身に纏う者が彼の命を切り捨てるような発言をしたのだから、王太子の反応は当然だった。
逆の立場なら、自分も同じように責める。
意味もわからず追い詰められた人間側からみたら、ルリアージェの答えは不正解だ。しかし、魔性であるジルには満足できる選択らしい。
「ルリアージェは優しいな……」
彼の冷たい手が銀の髪を撫でる。その感触に覚えがあった。親が我が子を慈しむような、穏やかで温かな感じが伝わる。実際には冷たい、人外の手だというのに。
「人間風情を助けるために、己を差し出すなんて――それじゃ、テラレスの時と同じだ」