第12話 女王の覚悟
主の悲鳴が聞こえる。
なのに近づくことは許されなかった。美しき彼の人の状況を透視することは出来るのに、転移はことごとく妨害される。
忌々しい『死神』の魔法陣によって――。
二つ名を持つ魔性は多くない。
魔王達を筆頭に、『女王』ヴィレイシェ、『氷雷』レイリ、『龍炎』ラヴィアなど、ほとんどの二つ名は『彼らの属性』を示した。炎を自在に操るラヴィア、氷と雷に特化したレイリの名は顕著な例だ。
女王の名を冠する彼女は、確かに魔王に次ぐ魔力を持っていた。
整った外見、豊満な肉体、そして奔放で自分勝手な性格……すべてが上級魔性の中で飛びぬけている。だから従った。美しいヴィレイシェを主と仰ぐことに誇りを持って、従ってきたのだ。
だが、魔王に次ぐ魔力は『歴然とした格差』があった。魔王と彼女の順位の間に割り込む強者はいないが、逆に魔王へ絶対に届かない魔力による格差が存在する。世界に選ばれ顕現した魔王達と、偶然の産物として生まれたヴィレイシェは、象と蟻ほどに違う。
それでも――。
「我が君……」
主の危機に、集まった魔性達が様々な手法を講じていた。透視を得意とする魔性の言葉で、転移阻止の魔法陣が主の身体に刻まれたと知る。
魔法陣はひどく美しかった。金色に光を帯びた魔法陣を読み解くことは難しい。完成され発動した魔法陣を書き換える技を彼らは持たなかった。そして、格上の魔法陣を書き換える魔力も足りない。
ゆえに心配つつ……失う不安に苛まれながら、新たな手段を探した。
「早くせねば」
「外側から崩すよりない」
「もう時間がないのだ!!」
必死になる彼らをあざ笑うように、悲鳴は小さくなる。透視の能力を持つ魔性の中には、耐え切れず発狂する者まで出ていた。
……黒い蟻に似た虫が、美しい主の身体を食い荒らしていく。生きたまま、少しずつ食われる恐怖……気を失うことさえ許さない魔法陣が、豊満な胸の上に刻まれていた。
「ひ…ぃ、あ、ああぁ……」
気高く、美しくあった主―――誇り高い彼女をして、ここまで壊される恐怖とは……。
格上の実力者に手を出したのだから、返されるのは当然だろう。そんな当たり前の話は馬耳東風、まったく意味を成さなかった。
女王の配下である我々は、ただ彼女を救いたいのだ。必要とされ、声をかけられ、見つめて欲しい。そのささやかな願いのために、命すべて使い尽くしても後悔はなかった。
なのに、今はどうしても届かない。
「やぁ…ぃや……めて……あぁ――っ」
あの美しい肢体を食い破る虫けらを掃って差し上げることも出来なかった。無力感に苛まれる時間すら惜しい。
「ヴィレイシェ様……」
転移阻止の魔法陣は滅多に使われない。使う必要性も場面もあまりないからだ。逆を言えば、転移できない場所を特定できるなら、その魔法陣の外側に転移してしまえば済む。
新たな転移地点を特定することさえ出来れば、大して難しくないのに……。
実用性のない魔術だが、今回は最悪の形で使われた。
『死神』を捕らえる為に作られた空間は狭く、中央付近でもがき苦しむ主を中心に展開する魔法陣に覆われている。外側に空間がないため、まず魔法陣の外を選んで転移する場所を作る必要があった。
そこから魔法で穴を繋げて近づくという、まどろっこしい方法を選ぶしかない。
時間がない。
美しい肢体はすでに半分ほど食われている。人間ならばとうに死ねただろう。だが魔性である彼女は、死ねなかった。魔力が尽きるまで、その命は存在し続けるのだから。
つまり、最後の骨一片、血の一滴が失われるまで――死ねない。
どれだけ苦しくても、痛くとも、死ねないのは『呪い』だった。
あの黒衣黒髪の魔性が仕掛けた『最悪の呪い』だ。死ねない魔性の特性を誰より知るからこそ、一番長く苦しめながらも助からない方法を選んだ。
だが、あの男の思惑にハマってやる理由はない。
魔力が尽きるまで死ねないなら、魔力が尽きるまでにたどり着ければ助けられる――ということ。
「まだか!?」
「あと少しだ」
己の身を引き換えても! 覚悟を決めた数百の魔性たちがたどり着いた先。
彼女はまだ『残っていた』。
食べ尽くされず、胴体の半分ほどと顎から下、左手の指が数本。
「間に合った!!」
叫んで手を伸ばす側近だった男が、「なっ!」と叫んで息を呑む。
見える位置に彼女は横たわる。もう悲鳴を上げることすら出来ず、血塗れの豊かな胸は少しだけ動いていた。まだ彼女は死んでいない。
なのに――。
ああ、絶望を深める為だけに。そのためだけに、あの男は『尽くす手数を残した』のだ。
伸ばした手の先は、見えない何かに阻まれた。
魔力を叩きつけても、風や水をぶつけても壊れない『何か』――あの死神が立っていた魔法円だ。あの魔法円は彼を守る物ではなく、閉じた空間への侵入者による干渉を防ぐ目的で設置された。
「とどか、ない……?」
「ヴィレイシェ様!!」
「何とかならないのか?!」
叫ぶ魔性たちの目の前で、彼女は少しずつ小さくなっていく。届かない指をあざ笑うように、実力のない彼らを罰するように。
最後の一滴、一片が食べ尽くされるまで――。
「覚悟もなく手を出すからだ、アイツと戦うなんて……おれだってゾッとする」
己のために作り出した空間で、赤毛の青年は苦笑いする。
ヴィレイシェがジル――いや、ジフィールを拉致したときから、ずっと監視していた。それこそが彼の役目だ。
世界を監視して、記録するだけの存在。
「うーん、彼女は何を望んだんでしょう?」
向かいのソファでくつろぐ少年は金髪を揺らして首を傾げた。
貴族の邸宅の一室を思わせる部屋は、豪華だが上品な調度品が並ぶ。装飾過多なソファは金の彫刻が施され、深紅色の布を張られた美しい作品だった。華奢な猫足が目を引く。名のある職人の作品か。
全体にワインレッドを中心とした部屋は、アイボリーの壁に大きな鏡がかけられている。縁がゆらゆらと揺れて見える様は、水に写した鏡を髣髴とさせた。
猫足のソファで笑う赤毛の青年が、薄い水色の瞳を細める。
「ジルを好きだったんだろ、自覚がなかったみたいだが……復活したのに無視されて暴走したって感じか」
勝手な想像を呟きながら、彼らは目の前の鏡に視線を戻した。
――いくつもの視線の先で、女王と呼ばれた上級魔性は消えた。




