第11話 彼の本性(1)
凶悪な本性が目を覚ますのを、ジルは愉しみながら待った。
獲物が飛び込むまで、あと少し。
僅かな時間を味わうように複数の魔法陣を描く。
彼女が構築不可能な、美しくも残酷な……高位魔術を展開するための魔法陣だった。詠唱しなくても発動できる魔術を、わざわざ天井や壁に刻み込む。
「……ッ、ジフィール! どうやって!?」
「待ちかねたぞ?」
くすくす笑うジルの左手から魔法陣が消える。
肌に刻んだ文字や記号は一切残されていなかった。
己を封じる魔法陣を手に刻み、対外へ放出できない魔力を傷口に流し発動させる。言葉にすれば簡単だが、とてつもなく難しい作業を果たしたジルは肩を竦めた。
自分より魔力の多い格上を捕まえる手段として、彼女が編み出した魔法は目の付け所は悪くない。
相手が並みの魔術師や魔物であったなら、おそらく成功していただろう。己を封じる魔法陣の無駄や隙を見つけ、掌に刻み付けて再構築するなど、通常は不可能なのだから。
過去は魔女として名を馳せ、今は魔物を統べる『女王』として君臨する女が目を見開く。美しい髪を振り乱して「嘘…っ」と叫んだ。
簡単に解かれる筈がない。
だって、彼の魔力は檻に刻んだ魔法陣で封じた。
どれだけ膨大な魔力量を誇ろうと、外に出せなければ無用の長物だ。魔法陣を生み出す為、必死で練り上げた魔力も記号もすべてが消える。
封印の魔法陣は身体の外にあり、体内に閉じ込めた魔力が作用する筈はなかった。だから、囚われ人の魔力では絶対に解錠出来ないのだ。
外部から手助けがない限り……。
なのに、目の前でジルが展開する魔法円から彼の魔力を感じる。
彼は確かに、不可能を可能にした。
虜囚であった男は、書き直された魔法円の中に立っていた。
左手に刻んだ魔法陣を利用して、己を囲い守護する魔法円を作り出す。それは彼女が憧れ、手を伸ばそうとした禁忌の箱――ジルに余計な手出しさえしなければ、あと数百年で届いたかも知れない高みだった。
「受け取れ、礼だ」
ジルの指が彼女の右側を指差す。招きよせる仕草と同時に魔法陣が発動し、大量の炎が噴出した。
実力を見せ付ける為だけの魔法陣は精密で、容易に無詠唱の発動を可能とする。息をつく間もなく、左側の魔法陣が氷で壁や天井を覆っていく。そして炎は氷を溶かさず、氷は炎を遮らなかった。
彼女の転移を封じる魔法陣が地に輝く。
彼女の左から吹き出す炎、右から凍てつく氷。
足元で転移を阻止し、正面に立つ青年の後ろの壁にも魔法陣がひとつ刻まれていた。まだ天井の魔法陣は作動していない。
彼自身は己を守る魔法円の中で笑う。
それはもう愉しそうに、嬉しそうに、残酷な色を浮かべて長い黒髪の先をくるくると指先で回した。
もう、逃げ場はない。
相反する高位魔術を同時に操りながら、さらに魔力を高めて指差した天井はぼんやりと光を放つ。
大量の虫を呼び出した魔法陣から、地へ落ちる黒い塊はもぞもぞと女王へ迫った。ぎちぎち顎を鳴らす蟻に似た虫たちは、一心不乱に女の元へ進む。
互いを踏み台にして、魔力を持つ獲物を食らうために。
「っひ……」
ぞっとする光景、最後にジルは彼女の後ろにある壁を指差す。
「死ね」
短い言葉が向けられる。ジルの彼女に対する返礼だった。
背を振り向く直前、彼女の胸を大きな針が突き刺す。口から赤い血が零れ出た。
豊かな胸を貫いた針は杭と呼べる大きさで、白いドレスの中央から赤く染めなおす。息が苦しくなり吸い込んだ途端、大量の血が顔を汚した。
日に焼けた肌を伝い、肉感的で豊満な身体は力を失う。
私は貴方が欲しかった。
羨ましくて、嫉ましくて……ただ隣に置きたかった。
貴方に認めて欲しいだけ。
「い、やっ……」
引き抜かれた針は、致命傷に足りない。
崩れ落ちる膝を虫が這い登ってきた。そこで残酷な彼の意図に気付く。
致命傷にならない傷、即死できない速度で死へと誘う虫の群れ…。
すぐは楽にしない。苦しんで、惨めに食い殺されろ――声にされなかった彼の命令が聞こえる気がした。
女王として魔性達の上に立ち、魔王に手が届くと言われてきた美女は、今や虫達の餌でしかない。
自慢の顔も身体も、美しいと褒め称えられた緑髪や瞳すら……虫たちにとっては魔力を宿す極上の餌だ。
針が抜けた穴から入り込んだ虫が蠢くのを、必死で払う。左右は炎と氷、後ろは針、天井から虫が湧き、地は転移を防いでいた。
ならば、なぜ私の魔法が使えない?
彼は平然と魔法陣を操ったというのに…。
足掻きながら立ち上がり、大量の血を吐き出す。
血走った緑の瞳に映ったのは、己の正面の壁で光る銀の魔法陣だった。他の魔法陣と違う色を纏う記号は、見覚えがある。
彼の魔力を封じるために使った魔法陣に似ていた。つまり…あれが魔法を封じている?
だとしたら、ジルはどうやって魔法陣を動かしたのか。
檻があった場所、宙に浮いた青年は黒髪を弄りながら口を開いた。
「この魔法陣、魔力じゃなくて魔法を封じる。つまり魔術を駆使して魔法陣を動かすオレは対象外だ。ちなみに、この方法は見物に来た氷使いの攻撃で思いついた」
丁寧にも説明してやったのは、彼女の絶望を深めるため。
オレを捕らえたと自慢するために呼んだ魔王の側近、彼の安易な攻撃で魔力の巡りに気付いた。だから利用する。
魔法は使えても魔術に手が届かない、魔性を従わせる女王ヴィレイシェを高みから嗤う手段として、ここまで手間をかけた。
この身を封じた彼女へ最低限の礼儀として。
仮にも二つ名を持つジルを、一瞬とはいえ留まらせた魔性への報復としては……軽すぎる。
彼女の命と引き換えに出来るほど、安いプライドではなかった。だから普段より手をかけて、『復活した』狼煙がわりに、より残酷な方法で蘇った恐怖を伝える。それ故の手法だった。
「っ……う、ぁ、やぁああ! あ、ぃやっ」
言葉にならない悲鳴が空間を満たす。音楽代わりに耳を傾け、助けに駆けつけようとする彼女の部下を弾く魔法陣を作り出した。
手の中で美しく回る魔法陣を満足げに眺める。
すっと転移で距離を詰めて、虫に身体を蝕まれる美女の耳元に囁く。
「――終わりだ、ヴィレイシェ」
多少の退屈しのぎにはなるが、敵になるほどの実力はない。
助けを拒絶するための魔法陣を、美しい彼女の胸の上に刻んだ。白いドレスから零れだしそうな豊かな胸元、鎖骨の下から掌ほどの魔法陣が肌を焼いて浮かび上がる。
これで助けはなくなった。
この部屋からの転移は不可能、部屋へ転移することは可能だが……彼女を助ける目的では転移が拒絶される。
外でやきもきしているだろう部下達が部屋に入れるのは、ヴィレイシェが食い荒らされ絶命した後だ。
不覚にも閉じ込められた不自由さとこのオレを見下した礼として、女王の命ひとつでは足りなかった。それ故に、八つ当たりを承知で彼女の部下を巻き込むのだ。
敬愛する主を害され、何も出来ずに嘆くといい。
そこで思いついて、ジルは彼女に刻んだ魔法陣を肌の上で書き換えた。
これでいい。
端正な顔を極上の笑みで彩り、肉を肌を命を虫けらに食い荒らされる上級魔性を覗き込んだ。
もっと苦しめばいい。もっと嘆くといい。
このオレに手を出したことを悔やみながら、死ね。
「久々に、愉しい遊びだったぞ」




