第10話 彼の事情(2)
作業中、走った右手の痛みに顔を顰める。
……誰かが封印に触れた。右手は痛みを増し、続いて指先から切り裂かれて赤く染まる。
血が滴ることはない、なぜなら傷も血も幻影だからだ。
ただ、その痛みだけは本物だった。
「ちっ、無理やり引き出したな」
ルリアージェが無理をしたのだと知った。
いつでも、彼女は自らを守らず他人を救おうとする。
もちろん人間だから多少の打算や計算はあるだろう。利己的で狡い行為も厭わないが、本質的に他人を守ろうとしてしまう。
それが愛おしく、微笑ましく、こうした場面では呪わしかった。
誰かを守るために力を振るったのか。
己が傷つくと知っていて力を解放するのか。
守られる対象が羨ましいとは思わない、その立場になり代わりたいと願うこともなかった。
ただ……ひどく妬ましい。
彼女に意識を向けられて、その美しい身を犠牲に守られた存在が……嫉ましかった。
右手はまだ痛む。共有した痛みは激しく彼女の無茶を伝えていたが、唐突に消えた。
「……深緑のヴェールか?」
治癒を司る魔術の中で、もっとも早く効果が現れる緑の光を思い浮かべる。
美しい肌に傷を残し痛みを我慢すれば、このオレの怒りと報復を招くことを……彼女は誰よりも知っていた。だから魔力が足りるならば、最上級の治療を己に施す。
隣にいれば、オレが癒すが……いや、それ以前に彼女にケガなどさせなかった。
治癒された事実にほっと息をついて、痛みで中断した作業を開始した。
手元に作られているのは、小さなレース編みのような模様だ。左掌の上に刻みつけた形で、直系7cmほどの円が展開する。
魔法陣の一種だが、円形であるにも関わらずひどく歪に見えた。崩れてしまった失敗作かと疑うほど、その形状は非対称で美しくない。
「うーん、あと少し」
右手の人差し指で爪びくように線を引っ張り、さらに形を崩した。
複雑な魔法陣はすでに崩壊寸前――数年をかけ練り上げたであろう彼女の『切り札である魔法』は、彼にとって『稚拙な魔術』となり果てた。
仕組みを正確に理解せぬまま組み上げた超常現象である『魔法』は、常に直感を頼りにする『女王』の十八番だ。それらの魔法は女王が『かくあれ』と願った結果に過ぎず、大量の魔力を注いで無理やり願いを形に変えるものだった。
魔王が揮う力に匹敵する大きな魔法を展開する彼女は、その魔法の力ゆえに『女王』と呼称される。
だが、それでも『魔王』には届かない。『魔女王』になれぬ程度の実力なのだ。
魔王と呼ばれる彼らは、魔法などというあやふやな定義の力を信用せず、利用しない。
魔王が使うは、確固たる理論と術式によって確約された『魔術』だった。
炎を起こす魔法と魔術、威力が同じであっても本質は別物だ。
魔法によって起こされた炎は不安定で、同等の威力を引き出す為に使用する魔力の量が状況によって増減する。だが術式が確定した魔術ならば、まったく同じ威力や熱を『再現』出来た。
使用する魔力の量までぴたりと同じ、炎を起こす場所、量や質、色、熱に至るまで、完璧に複写した術の展開さえ可能となるのだ。
魔術は複雑な計算と術式の上に成り立ち、適量の魔力を消費して起こされる化学反応に似た現象だ。それゆえに、魔王たちは女王のように魔法を使う者を見下し下位に位置づけた。
理屈や理論を理解しようとせず、ただ外見だけを真似た魔法は、明らかに魔術より格下だった。
世の真理を一端なりと理解できなくては、魔術最大の特徴である詠唱の短縮は出来ない。そして詠唱すら必要としないほど真理を理解した存在こそ、別次元の力を誇る魔王として崇められる対象であった。
手の中で解体する魔法陣は無駄が多い。解除するより、解体の表現が近いのはその所為だった。
無駄が多いから解く隙が生まれ、無駄が多すぎて解体しづらい。
理解できない不要部分を書き直して、ゆっくり解していた彼の表情が和らいだ。
魔力は使えなくとも、魔法を解く作業は可能だ。
蓄積した膨大な知識と多少の根気があれば、容易にこなす。ただ魔力に頼り使わない能力のため、慣れない作業に時間はかかったが……。
「できた」
誇るより、疲れが青年を襲った。この檻がジルの魔力を封じる機能さえなければ、魔術で吹き飛ばす方法が取れた。しかし中に転移してから魔力はほぼ無効となり、外へ放出するには自爆覚悟の危険が伴った。
残された方法は稚拙な魔法陣を書き直し、内側から崩壊させるものだけ。
肩が凝る作業をようやく終わらせ、檻の中で大きく伸びをする。
宙に浮いた檻の中央に立ち、口元に笑みを刻んだジルが左手を掲げる。そこには綺麗に書き直された美しい魔法陣が、淡い光を放っていた。
「……さて、お返しをしなくては」
くすくす笑う。高い位置でひとつに括った黒髪が頬にかかり、指先で弾いた。整った顔に妖艶な笑みを浮かべ、ジルは紫の瞳をゆっくり瞬く。
瞳の色が少し赤を帯びた。
邪魔された数倍の仕返しをしなくてはならぬ。
優位に立ったと勘違いしている女王を撃墜し、地に這わせてやらねば気が済まない。
ジルは己の我侭な感情が望むまま、解錠の鍵となる言葉を口にした。
≪滅びよ。我が身を縛る鎖は朽ち、いま過去の名より解き放たれん『ジフィール』≫
解放の言霊の最後、音に乗せるは己のかつての真名―――。
己の体内を巡る魔力が左手に集中する。
じりじり焼きつく痛みが肌に魔法陣を刻んだ。
金の光が満ちた虚空で、檻だった残骸を無感動に見つめる。足元も周囲もジルを拘束するものは何もない。あるのは壊され砕けた檻であった金属の破片だけだった。
「来い」
舌舐めずりする獣じみた笑みがジルを彩る。魔力を使わせないための封印は解け、すでに形を成していなかった。ならば、魔法陣を作った本人にも相応の衝撃が届いただろう。
「早く来い」
引き裂いてやる、その長い髪を千切り、自慢の顔を砕いてやろう。豊満な肉体を地に這わせ、虫どもにくれてやってもいい。
さあ、早く……。