「リザ」とオジさんのこと。
喫茶店「リザ」でオジさんと二ヶ月に一度づつ会う約束。私はそんな生活を長く続けている。そして、今日もその日だった。
短編小説です。読んでいただけると嬉しいです。
「リザ」とオジさんのこと。
オジさんとの約束の時間までは、まだ余裕があった。
昨日までのぐずついた天気が嘘のように晴れて、空を見上げるだけで心地良い。
週末ということもあり、駅前広場の銅像の前には待ち合わせの人だかりができている。子どもたちが集まってはしゃいでいる。
喫茶店「リザ」までは、ここから徒歩で十五分以上はかかる。待ち合わせ場所としては少し遠いが替えようと思ったことはない。もう十年以上も利用しているので店にも店のメニューにも愛着がある。
始めて行ったのはいくつの時だったのかは覚えていない。小学校にはいるかどうかくらいの頃かもしれない。幼い頃は、真希さんに連れ添われていた。
真希さんについては、母の友人と聞いていた。でも、真希さんは喫茶店への送り迎えを除いては、家に遊びにも来なかったし、母と親しげに話す様子でもなかった。
二ヶ月に一度、リザに通う日が近づく度に母の機嫌が悪くなり、些細なことですぐ怒られた。だから、子どもの頃は、早くその日が過ぎれば良いと思っていた。
でも、リザに行くこと自体は嫌ではなかった気がする。
真希さんに連れられてリザに行くと、喫茶店の奥のテーブル席には気の良さそうなオジさんが座っていて、私と真希さんを見つけると笑顔で手をあげる。その手がいつも左手だったので、オジさんはきっと左利きなのだろうと幼心に思った。
真希さんは、私を届けると、注文もせずに店を出ていき、後には私とオジさんが残された。二人は向かい合って座り、お気に入りのサラダとコーンスープのセットをよく頼んだ。サラダセットにはミニトマトが二つ付いてきて、私はそれを食べるのが楽しみだった。
子どもの頃、オジさんと何を話していたのだろう。きっと、学校での出来事や友達の話しとか、そんな他愛もないことだと思う。オジさんは好奇心旺盛で、私にたくさん質問したし、私が上手く説明できなくても辛抱強く耳を傾けてくれた。私が答えるといつも大きく相槌を打つ。その時目尻にできる皺が印象的だった。
食事の後は店を出て、近くのデパートや商店街で買い物をするのが常だったが、二時間もしないうちに、リザに戻らなくてはいけなかった。入り口の看板の前で真希さんが待っていて、私はオジさんに貰ったプレゼントを抱えて真希さんとまた帰宅の途に着くのだった。
私が一人で通える年頃になってからは、真希さんの送迎はなくなり、それ以後、真希さんを見かけることもなくなった。
オジさんが実父であることを知ったのは中学の頃だ。それ以前からそう薄々感じてはいた。「オジさんと呼ぶように」と母から繰り返し言われて育ったせいか、事実を知っても実父としての実感はなかった。
そもそも私の「父」に対するイメージがいびつなのかもしれない。
私にとって「父」とは、友達の会話に出てくるような、お酒を飲んで夜遅く帰ってくる存在であり、週末はテレビの前でゴロゴロしている存在だった。
母は、父についてはあまり話さなかったが、それでも、疲れているときなどに口をついて語られる父の姿は、無口で、無関心で、自分本意な人だ。そのどれもが、リズで会う「オジさん」の姿とはまるで重ならない。
オジさんが実父であると判って以来、オジさんとの間にどんどん距離が開いていった気がする。
不思議なことだが、実父であることがわかった途端、オジさんは私の中で「リズで会う優しいオジさん」さんとしての位置づけを失った。かと言って「実父」としての位置づけを得たわけでもない。そのどれにも当てはまらない位置づけ。強いて言えば「他所の人」になっていった。
向かい合っても、どこかよそよそしく振る舞ってしまう自分を感じ、口ごもることもしばしばになった。それでもオジさんは、柔和な笑みを絶やさないまま、私の次の言葉を辛抱強く待っていた。
正直、高校生になってからは「リズ」に行くことに気後れを感じるようになった。勉強や部活に忙しかったし、週末の時間もオジさんと過ごすよりは、友達と過ごすほうがずっと楽しかったからだ。
それでもオジさんと会うのを続けたのは、子どもの頃からの習慣だからかもしれない。
習慣というのは不思議なもので、一度身につくと、辞めるほうが難しい。
一度だけ、会いに行かない日があった。確か約束の日の前日に調子を崩したのだ。私はその日一日、布団の中で考えを巡らせた。体調が悪化してはいけないからだとか、会わないほうがオジさんにとっても良いに違いないとか。いってみれば自分に都合の良い言い訳だ。
母はそれを期に、オジさんと会うのを辞めてくれればと思ったらしい。そんな母に対する反発からか、それからの期間というもの、かえってリザに行く日が気になって仕方がなかった。
そして、二ヶ月後の第一日曜日。私がリズの入り口の木戸を押し開けて中に入ると、店の奥にはいつものようにオジさんの姿があり、いつもと変わらない柔和な笑みがあった。
オジさんとの待ち合わせまではまだ時間があるので、百貨店に入ることにした。
店内は多くの客で賑わっていた。賑わいと音楽が心地よく調和して自然と気分も高揚してくる。
ジュエリー売り場の脇を抜けてエスカレーターに乗り、紳士用売り場へと向かう。
思えば、これまで「オジさん」から沢山のプレゼントを貰った。決して高価ではないけれど、思い出深い物も多い。うさぎのアップリケをあしらったハンカチなどは今でも愛用しているくらいだ。
でも、プレゼントを貰うことはあっても、あげたことはほとんどなかった。せいぜい「リザ」で作った折り紙の鶴くらいのものだ。私はこんなに長くオジさんと時を経てきたのに、オジさんの誕生日すら知らなかった。
だから今日はオジさんにプレゼントをしたかった。
大学に入り、バイトでお金も貯まったので、その中から少しでもお返しが出来ればと思った。なにより、僅かであれ自分でお金を稼ぐことができるようなったことを知ってもらいたかった。
紳士服売り場には男性が多くて、売り場にいることが場違いな気がした。
棚を見て廻ると、素敵な紺色ハンカチを見つけた。四隅の一つに二重のストライプが入っただけのシンプルなデザインだが、どことなく気品と温かみがある。オジさんにも気に入って貰えそうな気がした。少し高価ではあったけど迷わず買い、レジでプレゼント用に包んでもらった。
「リザ」に向かう時間だった。プレゼントをバッグにしまい、百貨店を出た。
商店街のアーケードの中を抜ける。右に曲がってしばらく歩くと「リザ」の控えめな看板が見えてくる。手作りの木の看板は、昔から同じデザインで愛着がある。
待ち合わせの時間まではまだ五分ほどあるが、オジさんはもう来ているだろう。これまでも、いつも私より先に来て、待っていたから。
そう思ってドアを開け、あれっと思った。何時もの席にオジさんの姿はない。
かわりに、他の女性客が腰を下ろしていた。先に女性客が座ってしまったので、オジさんは他の席をとったのかも知れない。あたりの席も見回してみた。でも店内にオジさんの姿は見えなかった。
まあ、オジさんも一度くらいは遅刻するかもしれない。時間通りに家を出ても、バスや電車が遅れたりすることもきっとあるだろう。むしろ、これまで一度も遅れなかったのが不思議なくらいだ。
私は店内で待つことに決めて、女性客が座っているテーブルの隣の席に席をとった。オジさんが後から来てすぐ分かると思ったからだ。
席に座ろうとすると、隣の女性と目が合った。
あ、と言い掛けて、私は手で口元を抑えた。女性に見覚えがあった。
「真希さん」
女性の表情が一瞬だけ緩んだ。
「覚えていてくれたのね」
でも、すぐ元に戻った。
「急にごめんなさいね。実は今日は頼まれてここにきたの」
真希さんの表情から、それが良い知らせではないのはすぐに判った。でも聞かずにはいられなかった。
真希さんは私に向かいの席に座るよう勧めた。私が座ると話を続けた。
真希さんは言葉の選択をまちがえないように、一言一言慎重に話した。
オジさんは入院したため、もうリザには来れないこと。症状は重く、再び「リザ」に来れるようになるかどうかはわからないこと。そして、オジさんから手紙を預かってきたこと。
それを受け取る。
オジさんの手紙には、私への感謝の言葉と、父親として傍にいられなかったことへの謝罪の言葉が几帳面な文字で綴られていた。読んでいるうちに涙が溢れてきて、手紙の文字が見えなくなった。
顔を上げて、私は訊いた。
「で、どの病院に入院しているんですか?」
真希さんが目を見開いた。
「どうして?」
「今すぐ会いに行きたいので」
私は立ち上がった。そして病院の名前をきくと「リザ」を飛び出した。
商店街を走って戻り、駅から電車に乗った。目的の病院までは電車で二時間近くはかかる。本当は夕方から約束があるが、すべてキャンセルして、ラインで友達に侘びのメッセージを入れた。中央駅でホームを移り、北上行きに乗り換える。電車は住宅地を縫うように走っていく。
車窓の景色を眺めていると、オジさんの手紙を思い出した。
私は、違う、違うと首を振った。オジさんはいつも傍にいたのだ。それに気が付かずにいたのは私のせいだ。私が周りの物事に気を取られすぎていたからだ。私の方こそ、オジさんの優しさに甘えていたのだ。
ごめんなさい。
電車は目的の駅に着いた。
駅前の大通りに病院の案内板が見えた。指示に従って右の小路に入っていくと、まもなく病院の建物が見えた。
総合病院ということもあり、受診受付の長椅子には多くの患者が待っている。
案内所で入院病棟について尋ねた。
「ご家族の方ですか?」
「はい」
「今日の面会時間はもうすぐ終わりですが」
「少しでも良いんです。五分でも」
必死だった。
事務員は気負された様子で用紙を渡した。
面会手続きの用紙に必要事項を記入し、事務員に言われたとおり、エレベーターを上がる。隣の病棟とは渡り廊下で繋がっていて、壁の案内に従って進めば部屋につく。
オジさんの部屋は二人部屋のようだ。ドアをノックしてみたが返事はない。もう一度ノックすると、今度は返事がした。聞き慣れた声だ。
ゆっくりとドアを開ける。
手前のベッドは空いていて、窓際のベッドはカーテンが閉まっている。そのカーテンがゆっくりと開いて、痩せたオジさんの顔が覗いた。オジさんは驚きを隠せないでいた。でも、その顔が直ぐ笑顔に変わった。
「お父さん」
こみ上げてくる涙とともに、言葉が漏れた。そして、私は傍へと駆けた。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
気に入って下さった方は、「朝霧の姫」(短編)の方も読んでみてください。お願いします。