ナンシー(5)
ナンシーの怒りで狭いエレベーターの中は嫌悪な雰囲気になったが、
「ケンカハヨシマショウ」
カランの片言の日本語がその場の空気を和らげた。嫌悪な空気とそれを和らげる空気とが入り混じった妙な雰囲気の中、エレベーターは漸く終点に着いた様である。二人の警備員はそのままエレベーターに乗って帰って行った。
彼らの降り立った場所はちょっとしたビルの中の様だった。暫く一緒に歩いていたが広場の様な所に来るとナンシーはカランとだけ英語で話して、手を振って分かれた。二組のカップルは行き先が違うらしい。
「ナンシー、何処へ行くんだ。これから俺は何をすればいいんだ?」
「黙って付いて来れば良いわ。着いたら話すから」
ナンシーはまだ相当に怒っているようである。エレベーター付近には誰もいなかったが、人の姿をちらほらと見かけるようになっていた。
何度かドアを開けて来たがそのうち急に視界が開けた。遥か彼方まで道が続いている。面白いのは柱が木の形をしていることである。樹皮らしいボコボコもあるし色もそれらしく塗られている。勿論枝や青々とした葉も沢山付いている。
どうやらそれ等の『木』は『外』をイメージしているらしい。柱が四角形や円形なのは『家の中』を意味している様である。
また『外』は天井が高く、『家の中』の倍位ある。その他に面白いのは二階建ての『家』があることだった。屋根は天井にくっ付いていて、多分それが柱の代わりにもなっているのだろう。
それにしても不気味なほどナンシーの沈黙は続いている。やがて『木』の密集している所にやって来た。ここは多分『森』なのだろう。勿論全てイミテーションである。周囲には殆ど人がいない。
「へーえ、人工の森か!」
余りにナンシーが喋らないので、金雄は仕方なく比較的大きな声で独り言を言った。
「貴方に話して置きたい事がある。鞄はそこの木の根元に置いて」
漸くナンシーは口を開いたが、嵐の前の静けさの様な感じだった。金雄は言われた通り南国格闘会館の道着や、替えの下着などの入った鞄を『木』の根元に置いた。ナンシーも持っていた小さなバックを別の『木』の根元に置いた。
それから金雄のそばに来て、
「浜岡先生の事を、商売人等とよくも言ってくれたわね。ゆ、許せない! 私と勝負しろ!」
物凄い形相で金雄を睨み拳を作って構えながら叫んだ。
「悪いが俺は女とは戦わない。止めてくれないか!」
金雄も叫んで止めさせようとしたが、
「問答無用! クオリャーッ!」
両足を揃えての飛かかと蹴りで金雄の顔面を狙った。まともに当たったら即死するほどのスピードとパワーだった。しかし金雄の反射神経は軽々とそれをかわした。
「頼むから止めてくれ!」
「煩い!」
ナンシーはスタッと地上に降り立つと、直ぐ反転してパンチやキックを雨あられの様に浴びせた。
影山リカとは比較にならないほどの鋭い攻撃だったが、金雄は余裕を持ってかわしていく。ナンシーの攻撃はそれから数分間続いたが、一度もかすりもしなかった。ナンシーの呼吸は激しく乱れていたが金雄は全く平然としている。
『もうこうなったら、一か八かやってやる!』
彼女の狙っていたのは顔面肘打ちである。即死の恐れがあって勿論禁じ技である。顔に穴が開くと言われるほどの危険な技なのだ。それをバランスを崩してでも顔面に叩き込む積りであった。
下手をすると自分が転んで怪我をしかねない。体力的にもう限界に来ているのでこれに賭けてみる事にしたのだ。素早く駆け寄って、飛び込む様に右肘を金雄の顔面に叩き込んだ積りだった。
しかしそこに金雄はいなかった。捨て身の攻撃だったが間一髪でかわされていた。ナンシーはバランスを大きく崩していた為に、受身を取る事も出来ずに頭から地面に飛び込む形になった。
頭から落ちては大怪我は必定である。かといって腕を着けばタイミングが悪くて、腕の骨が折れそうだった。こうなる事は覚悟の上だったのだが、やはりそうなってしまった。
『もう駄目だ!』
そう思った時、何故だか自分の体が空中で止まった。いやそうではない。金雄に抱きかかえられていたのだ。金雄は静かにナンシーを地面に下ろした。
「危ないな、大怪我をするところだったぞ。いい加減に止めろ!」
さすがに金雄も怒った。
「ウ、ググググ、ウワーーーッ!」
ナンシーは既に体力的にも限界で満足に起き上がる事さえ出来ず、負けを認めたのか悔し泣きに泣いた。
「く、くそう! こんなもの! こんなもの!」
半狂乱になりながら横たわったままの状態で、上着とズボンとをビリビリと破り裂いてしまった。もの凄い力である。とうとう下着がもろ見えになった。金雄にはナンシーの行動が理解出来なかった。