影山兄妹(10)
「じゃあやりましょう。時間無制限、どちらかがギブアップするまでというルールでどうですか。禁じ技無しという事で」
「へへへ、面白えじゃねえか。股蹴っても良いって事だよな」
「はい」
「小森先生、手、手加減お願いします!」
金雄は笑って目配せをして見せた。何か考えがあるのだろう。
道場の中央で向き合った二人だったが、寅吉は礼もせず、いきなり金雄に突進して行った。しかし彼の突進先には金雄がいない。
「な、何だ。ど、どこへ行った?」
「こっちですよ」
いつの間にか金雄は後ろに来ている。
「野、野郎!」
寅吉はまた突進した。また後ろにいた。次は寅吉も考えた。前進する振りをして後ろを振り向き突進した。しかし何度か突進を繰り返していたのでかなり疲れていて、腹部の筋肉が少しだが緩んでいた。そこへ金雄のかかと蹴りが見事に決まった。
「ぐあっ!」
今度は激痛に吼えた。寅吉が悶え苦しんでいる間に後の始末は他の道場生達に任せて、金雄はリカと共に徒歩でバス停に向かった。
歩きながら二人はかなり打ち解けた話が出来た。
「寅吉さん大丈夫ですよね?」
「はい。何日間かは痛むと思いますが重傷にはならないと思います。手加減して置きましたから」
「あれで手加減なんですか?」
「そうです。以前は手加減ということを知らなかった。俺は大樹海の中で生きて来たんです。野犬の群れに襲われた事は聞いていますか?」
「はい、全身傷だらけだそうですね」
「そうです。手加減なんてしていたらもうとっくに死んでいます。天空会館の人達と戦った時はまだ俺は野生の人でした。重傷を負った者や死ぬ人が出て来たのはその為だったんです」
「……少し分かって来ました。でも今は人間の世界で長く生きているから、手加減する事を知った。そういう事なんですよね」
「その通りです。しかし罪は罪。昔の罪を命で贖えと言うのならば俺は何時でも差し出す積りです」
「そ、それは駄目だわ。試合中の事故は事故よ。殺人ではないわ」
「有難う。分かってくれる人が一人でもいれば嬉しい」
二人はバス停に着くと一旦話を止めてバスの到着を待った。直ぐ来る筈である。
「ゴーーーーッ!」
二人がバスを待っている間に何機ものジェット旅客機が空を行き交った。世界の各都市へ向かう旅客機もあればやって来た旅客機もある。
先ほどまで静かだったのは、深夜の乗り入れや出立が規制されているからに違いない。午前八時も過ぎてその規制が解除されたのだろう。待っていましたとばかりに旅客機が行き交うようになった様である。
「いやーっ、凄い飛行機の数ですね。毎日こうなんですか?」
金雄は物珍しそうに言った。
「はい。この国では深夜の規制が特に厳しいので、むしろ今頃が一番賑やかなんですよ。もう少しするとそれ程でもなくなるんです。
ただ、この国は観光立国ですから、ちょっと不釣合いな位に立派な空港があるんです。滑走路も複数の三千メートル級の他に四千メートル級の奴が二本あって、世界最大のスーパージャンボジェット機も発着しているんです。
でも今回金雄さんの乗るのは、申し訳ないのですがアメリカ行きにしては小さくて、百数十人乗りのエアバスなんですけど……」
リカはちょっと申し訳無さそうに言った。
「いや、飛行機は初めてなのでむしろ小さい方が良いですよ。スーパージャンボジェット機というと千数百人乗れるって奴でしょう?」
「はい、飛行機というよりも空飛ぶ船という感じです」
「はははは、理屈では分かっていても何だか怖いですね。図体が大きくなればなるほど、強い風に弱いんじゃないのかな……」
金雄は不安げに言った。
「ふふふふ、意外に心配性なんですね。でも大丈夫。ここを発着するスーパージャンボジェット機は未だに一度も墜落した事が無いんですからね」
「はははは、そ、そうですか。じゃあエアバスは?」
「たった一度だけあります。でも重傷者が数人だけで、殆どの人が軽傷で助かったからまあ、ここの空港は世界一安全だって言われています」
「そ、そうですか。ふう、幾らか安心しました」
金雄の不安は余り消えては居なかったが、
『これ以上心配げに言ったらリカさんに迷惑が掛るから、ここは平気な振りをしておこう』
そう考えてそれ以上飛行機の話はしない事にした。間も無く遠くにバスが見えて来た。
「ああ、そろそろバスが来たわね。まだ小さくしか見えないけど、あのバスがそうよ」
「目が良いんですね。バスなのは分かるけど、何処行きかまでは分からないな」
「ふふふ、別に行き先の文字が見えている訳じゃないわ。今の時間に来るバスといえば空港行きしかないのよ」
「何だ、凄いと思ってちょっと損したな」
「あっ、内緒にして置けば良かった。そうすればずっと凄いと思われ続けていたのに……」
そこからリカのだんまりが始まった。陽子の時の様に別れが近付いて来て、とても辛いのだろう。
バスが来て二人並んで座ったが、暫くの間一度も口を開かなかった。金雄が話し掛けても、俯くばかりである。困った金雄は思い切ってネグリジェの件について聞いてみる事にした。
「えーと、今朝のあのネグリジェの事なんだけど、何て言うかあれを着て寝ていたようには思えなかったんだけど。それと朝まで何処にいたのかな、三階には誰もいなかったと思うんだけどね」
ネグリジェと聞いてリカはハッとした様に話し始めた。
「女子の更衣室にいたんです、私。内鍵を掛けて。昨夜遅くまで兄と研究室で話し合っていました。研究室ではビデオの再生とかが出来るので、金雄さんと私の試合の様子なんかを見ながら話し合って、と言うよりは激論だったんですけど、暫く話しているうちに金雄さんの素晴しさが見えて来たんです。
あの時のルールだと、金雄さんからは私に指一本も触れる事が出来ません。兄はそう指摘しました。私はクラブの女子では、おこがましいけれど一番強いです。
それで他の女子相手では練習にならないので男子と練習をする事があるのですが、見えない所で嫌らしい事をして来る人もあります。偶然を装って胸に触ったりとか。
金雄さん程の実力があればしたい放題だと兄は指摘しました。それを絶対出来ないようにしたんですよね、自分から。目が覚めました。……ネグリジェの件はナンシー先生からの指示でした」
リカはとうとう、ナンシーの指示を認めた。