影山兄妹(9)
「俺と母さんは二人きりで大樹海の中でテント暮らしをしていました。何故なのかは分らないんですよ。俺が十才くらいの時、母さんは居なくなりました。
これは俺の想像ですが沢に転落したんじゃないのかな。そこから下流に流されたらもうお終いです。探す範囲が広過ぎてどうにもなりません。
それにその頃は、これも理由は良く分からないのですが、他の人と話しをしてはいけない、と母さんに厳重に言われた事を忠実に守っていましたから」
金雄はしんみりと言った。
「……大樹海の中のテント生活ってそういう事だったんですか。ちょっと信じられませんけど。私はてっきり修行の為にテント生活を一、二年したのかと思っていました」
「はははは、そうだったら良かったんですけど。それでこれもまた推測なんですが、身元を証明するものは全部母親が肌身離さず持っていたんじゃないかってね。
だから俺は自分の名前を正確には知らないんですよ。小森金雄は偽名で、本当はムゲンと言うんです。苗字は分らないんです。それからムゲンの漢字も知らない。それで仕方なくローマ字表記の頭文字を取ってエムと名乗っていたんですよ」
「あ、あああ、ああ……」
リカは言葉を失った。激しい衝撃で朝食が食べられなくなってしまった。金雄はちょっと喋り過ぎたと後悔した。
「エ、エムってそういう事だったんだ……」
リカの目から大粒の涙が零れ落ちた。
「ううう、済みません。私、何だか凄い誤解をしていた気がします。……でも吹っ切れました、完全に。が、頑張ってご飯を食べてしまいますね」
かなり無理して、涙交じりのご飯を何とか食べ切った。
『本当は可愛い娘さんなんだ。こういう人を苦しめても平気なのか、あのナンシー山口という女は!』
金雄の心の中に怒りが込み上げて来た。しかしすぐに冷静さを取り戻した。
『諸悪の根源は、ナンシーじゃない。浜岡という男だ。彼女もあの男に操られているのに過ぎない!』
美味しい食事は人の心を和やかにする。怒りの感情も間も無く薄れ、金雄も食事を終えた。
「ご馳走様でした。とても美味しかったですよ」
「有難う御座います。泣いたりなんかして済みませんでした。せっかくの朝食が台無しになっちゃいましたね。御免なさい」
「いやそれは俺の話題が拙かったんですよ。申し訳無い」
「いいえ、こちらこそ。ああ、お茶を入れましょう」
「いやあ何から何まで、……でも、お茶も飲みたいですね。それじゃ、お願いします」
二人で格闘技に関する話などをしながらお茶を飲み、それも終って金雄が三階の部屋から鞄を持って来る頃になると、ぼちぼち門下生や一部の指導者達がやって来た。
平日ではあったが、この日、仕事が休みの者は早朝から練習するのである。噂を聞いている者や、試合を見ている者は金雄に教えを乞うた。
空港行きのバス乗り場まで徒歩、凡そ十分かかる。八時までの一時間ほど道場で教える事になった。
道着の上着と帯とを借りて指導した。さすがに今回は黒帯を貸してくれたので、少し照れながらではあったが、それを締めての指導だった。しかし彼を良く知らない者もいて、
「若造が偉そうに!」
と聞えよがしに言う者もあった。
その中の一人、大岩寅吉は実力者であったが素行に問題があって、決まっていた南国大会への出場を取り消されたのである。重量級の有力な優勝候補だった。
最初は無視していたのだが、何かに付けて文句を言うので金雄は、
「そばでごちゃごちゃ言われると練習にならないな。静かにして貰えませんか」
そう、一度だけ注意をした。しかし尚煩く言うのでついに切れた。
「私と試合をしてみますか。もし私が勝ったら静かにしていて下さい」
「へへへへ、あんたが勝ったらね。俺が勝ったらどうするんだ?」
「あんたの言うことを聞く事にしましょう」
「へへえ、随分自信があるんだな。南国大会に出なかったからといって、俺を舐めんじゃねえぞ!」
寅吉は名前の様に吼えた。
しかし金雄の実力を知っている者達は何とか止めようとした。
「寅吉さん止めた方が良い。こちらの方はスーパーヘビー級で優勝された方なんだ。桁が違うよ」
「何だってえ、スーパーヘビー級がどうした。自慢じゃねえがスーパーヘビー級の猛者二人を倒した事があるんだぜ。
ルール無しの喧嘩で二対一でだぜ。さあどうした、はははは、そう聞いたら怖気づいたか! どうだ、やるのかやらねえのか!」
寅吉はさらに吼え続けた。