別れ(3)
「そういう事になる。最初に言う事は俺の名前は小森金雄ではないという事だ」
「ええっ! そ、そんな……」
「俺の本当の名前はムゲンという。ただしどういう漢字を当てるのか分らない。苗字は残念ながら分らないんだ」
「そ、そんな馬鹿な、そんな人聞いた事がない。嘘でしょう?」
「本当の事だから仕方がない。色々な偶然も重なったんだと思うけど、俺はずっと北の方にある大樹海の中で、母さんと二人きりでテント暮らしをしていた。……」
陽子は青ざめながらも必死になって金雄の話を聞いた。
「ムゲンの頭文字Mから、エムと名乗って大樹海の麓近くにある天空会館に行って、……、第三道場で人を殺した」
「ひーーーっ!」
それまで必死に耐えていた陽子だったが、殺人の告白でついに耐え切れなくなった。例の発作が再発した。
『仕舞った、刺激が強過ぎた!』
言葉だけなら大丈夫だと思っていた金雄の考えは甘かった。ガクガクと陽子は震えだし、涙が溢れ出て来た。
ただ様子を見ているだけの自分がもどかしかったが、下手な言葉や行動はかえって症状を重くする。医者を呼ぶのは最後の手段である。心配しながらも数分待つと、症状は徐々に良くなって来た。
暫くすると陽子は思いがけない事を言い出した。
「あ、あのう、あれをして欲しいんですけど」
「あれ?」
「はい、私を抱きかかえて階段を昇って欲しいんです。今回は降りても良いです」
「ああーっ、あれが良かったのかな?」
「……はい、最高でした。それで金雄さんを諦められます」
陽子は顔を赤らめながらも自分の決意を言った。
「うん、じゃあ、やってみようか。ちょっとドアを開けて来る」
金雄はドアを開け放つとまだ震えの残る陽子を抱きかかえ、部屋の外に出て階段へ行った。
「じゃあ今日は大サービスで下りと上りの両方をする事にしよう。多分これが最初で最後だと思うからね」
「はい」
金雄は何の躊躇もせず猛スピードで下りて行った。しかも陽子に負担を掛けない様に、踊り場に着く時にはフワリと降りる。それでもあっという間に一階に着いた。
「ふう。……じゃあ今度は上りだよ」
一息吐いただけで直ぐ昇り始めた。相変わらず素晴らしいスピードで、しかも慣れて来たからだろうか、この間よりずっと滑らかに昇って行った。
その途中で陽子の涙は一層多くなったが、それは感激の涙だった。体の震えも恐怖心から感動のそれへと変って行ったのである。陽子は刹那的ではあったが最上の幸福を感じていた。
前回の様に七〇二号室の前に来てから金雄は陽子を降ろした。ドアが開けっぱなしになっていてちょっと無用心だったが、一分とは掛っていないので先ず問題はない。
「念の為に、失物が無いかどうか調べた方が良いと思うけど、人の出入りした気配が無いから大丈夫だろう」
「ええ、ざっと見てみるわ。お疲れでしょう、私の部屋で休んで行けば?」
「もうすっかり遅くなったし。明日の朝はのんびりだから、でもあんまり遅い様だったら起こしてくれると良いね」
「はい、……わ、分かりました」
陽子はうつむいて仕方無しに一人で部屋に戻った。辛そうな表情は金雄の胸を打ったがどうにもならない。
『体は一つしかないしな……』
金雄は部屋に戻ると急に疲れが出て来て直ぐに寝てしまった。
「ルルルルー、ルルルルー、……」
早朝、電話のベルで彼は起こされた。
『ええい、今頃何だ、またナンシーか!』
受話器を取ると思った通りあの女の声だった。
「ナンシーよ」
「もう少し時間というものをわきまえて貰いたいな!」
「今頃誰かさんとやりまくっていると思ったので遠慮したのよ。ふうん、野獣にしては良く我慢したわね。それとも彼女が小さ過ぎてサイズが合わなかったのかしら?」
「煩いな、一体何の用だ!」
「今日の予定を知らせるから良く聞いて。丁度正午きっかりに中央島に行くフェリーが出る。切符の手配はお隣さんにでも頼めば良いわ。島に着いたら迎えの者がいるから後はその人の指示に従えば良いのよ」
「俺は約束を守って優勝したぞ。いい加減解放したらどうなんだ、せめて美穂だけでも。俺と違って彼女は善良な市民だ。頼むからそうしてくれ」
ややトーンを落として懇願してみたが、
「野獣には鎖が必要なのよ。彼女はその鎖。切る訳には行かないわね。じゃあね」
取り付く島が無かった。彼等の目的が相変わらず読めない。暫く考えてみたが諦めてもう一度寝直した。
「おはよう御座います。小森金雄さーん、時間ですよう!」
何度もノックしながら陽子は元気良くやって来た。