罠(2)
リング上での人間とロボットとの試合はほぼ互角である。恐らく時間切れでルール上人間の負けになるだろうと予想がついた。
テーブルの上の申し込みの箱に、記入済みの申し込み用紙が一枚も無いのは、次の試合の予約が無い事を意味している。
金雄は早速申し込み用紙に、嘘の住所氏名を書いて箱の中に入れた。試合は予想通り決着がつかずに人間の負けとなった。
「いやーっ、残念でしたねえ。もう一押しでした。次にはきっと勝てますよ」
心にも無いお世辞を言って、ロボット屋の親父は負けてうなだれる男を励ました。
「また来ます。次は勝ちますから!」
「はい、またお願いしますよ!」
そう言うと親父は申し込みの箱を見て中の用紙をしげしげと眺めていた。
「うーん、中森秋雄?」
「はい、次に試合をしたいんですが……」
金雄は断られるかも知れないと思いながらも聞いてみた。
「ふーん、試合をしたいんだ。本名を書かなきゃいけないね、小森金雄、いや、エム!」
親父はそう言って金雄を睨み付けた。
「な、何の事ですか?」
「小笠原美穂の命は我々が預かっている。警告しておく。ちょっとでもおかしな真似をしたら、彼女の命は無い。ただの脅しで言ってるんじゃないぞ!」
それまでの幾分人の良さそうな態度は一変して、凄みのある調子に変った。
「あ、あんたは誰なんだ! 何でこんな事をする!」
金雄は怒鳴ったが、親父は平然としていた。
「名乗るのは後にする。一緒に来て貰いたい。嫌なら彼女の命が消える、それだけだ」
「……分かった。美穂の命だけは取らないでくれ」
「むやみに殺しはしない。ただ四六時中彼女には監視が付く。何かあったら直ちに彼女を処刑する手筈になっている。何も無ければ何もしない、そういうことだ」
「良く分かった。で、何処へ行くんだ」
「向うに止っている車に乗って貰いたい。詳しい事は車の中で話す。来い!」
様子がおかしい事にもっと早く気が付くべきだったと金雄は後悔した。そもそも人通りの少ない所でロボット屋が営業する筈が無いのだ。
近頃仕事が余り無くて金雄は焦っていた。その焦りが判断を狂わせたのだろう。黒い高級乗用車の後部座席の真中に金雄は座らされた。右に例の親父が、左に観衆の一人だった恐ろしくごつい男が座った。
この様なごつい男が観衆で居るのもおかしいと言えばおかしい。前の席にはやや小柄な運転手と、大柄なこれもごつい男が座った。
「それじゃあ行ってくれ」
親父の一言で車は走り出した。
「どうだ、名演技だったろう?」
車が走り出すと、親父は再び口調を変えて、やや親しげな言い方をした。
「どういう積りなんだ。目的は何だ。……頼むから美穂にだけは手を出さないでくれ」
金雄は親父の話を殆ど無視して、美穂の命乞いをした。
「ふふふ、薄々気が付いていたんだろう? 俺達が監視していた事を」
「ああ、分かってはいたがどうにも出来なかった」
「まあそんなものだろう。天空会館の関係者と言えば分かるよね?」
「ぐっ、やっぱりそうか。だったら俺を殺せ!」
「そうはいかない。三ヶ月も待ったんだからな。お前が美穂を信じ切るまでの時間を与えたのさ。最高の人質になるようにね、ふはははは」
親父は得意そうに笑いながら言った。
「く、く、くそう!」
「私は浜岡と言います。その内何度も耳にする事になるでしょう。ところでエム、お前の本名は何だ?」
「……俺は母さんにムゲンとだけ呼ばれていた。それ以外の事は分からん。苗字も知らないし、漢字も分からなかった。だから頭文字を取ってエムと名乗った。母さんと一緒に大樹海に住んでいた。ずっとテント暮らしだった。
だけど母さんはいなくなった。それから一人で暮らしていたんだけど、二十才位の時から空家に住むようになった。その後の事は分かっていると思う。
母さんが何故苗字を秘密にしたのか分からない。しかしそれを聞く前に母さんはいなくなった。今もって会っていない。……恐らく何処かで死んだのだと思う」
「へーっ、これは驚いた。この世の中にそういう人が居るとはね。しかし納得しましたよ。異様に強い男は異様な人生を歩んで来た。真理ですね、はははは」
浜岡は金雄の話をあっさりと信じて言った。
「俺をどうする積りだ!」
「目的地に着くまで、まだ時間はたっぷり有ります。これからじっくりお話致しましょう」
車は南へ南へと走っている。しかし今のところ何処へ行くのか見当も付かない。
「さて、ここまでの経緯を掻い摘んでお話しておきましょう。その方が話が分り易いと思いますからね」
意外なほど浜岡は丁寧に話をし始めたのだった。