ユミ(29)
「あ、いや。こちらこそ、エムさんを誤解しておりました。ナンシーさんのこともなんだか随分悪く言った様な気がします。
ユミさんにあいつは、とんでもないあばずれに違いないとか、相当酷く言った様な気がします。あははは、申し訳ない」
「あーっ、ひっどーい! でも少しは当ってるわ。私も最初は金雄さんを誤解して、散々酷い事を言った事がありましたから、大きなことは言えません」
「えっ、そうだったんですか?」
「はい、最初はメチャメチャ酷い言われようでした。でも今はすっかり仲が良くなっていますがね」
「はははは、そうでしたか、はははは」
三人の話は弾んで、午前零時頃にお開きになった。
金雄とナンシーは例によって身分証を外してから布団の中で囁き合いの会話を始めた。
「ベットの中での話って言っても、日本式の布団の中よね」
「まあ、そんな事はどうでも良いんだけど、俺の頼みを聞いてくれるか?」
「はい、はい。それで、何?」
「美穂の事なんだが……」
金雄は酷く言い辛そうに話し始めた。
「美穂さんの事?」
「確か面識はあったよな?」
「ええ、試合の経験が何度かあるし、浜岡にも色々聞いているしね」
「助けて欲しいんだよ。出来れば君自身の手で」
「私が助ける?」
「君の熱烈なファンを動員して貰って、美穂の居場所を確認するなりして、一緒に逃げて欲しい」
「な、何を言っているの? 美穂さんを助けるだけなら日本にいる私のファンに頼めば、大丈夫上手くやってくれるわ。私は金雄さんと一緒よ。たとえ浜岡に命を狙われる事があってもね」
「足手まといなんだよ。奴らは恐らく拳銃を使って来るだろう。俺一人なら逃げられるけど、ナンシーと一緒じゃ逃げられないかも知れない」
「嘘つき! 私を見捨てて逃げると言った筈よ。拳銃で撃って来たら、私が撃たれる事なんかに構わずにさっさと逃げればいいのよ。それだったら足手まといにはならないでしょう?」
「しかし、俺にも情と言うものがある。ほんの少し逃げるのを躊躇うかも知れない。コンマ数秒の躊躇いが命取りになる事もあるんだ。だから明日か明後日までに日本に帰って欲しい」
「嫌よ。そんな話は聞きたくない。金雄さんと何時も一緒にいるのよ!」
ナンシーは金雄に抱き付いた。それから激しくキスを求めた。金雄はそれをやんわりと受け止めてから、また話を始めた。
「元日の決勝戦の直前が絶好のチャンスだと思う。それまでに支度を整えて決行して欲しいんだ。お正月だと日本からこっちへ来る人は多いけど、こっちから向こうへ渡る人はそう多くない筈だ。
飛行機の切符も簡単に取れるだろうし、上手く取れない時には、それも君のファンにお願いすれば何とかなるんじゃないのか? もし浜岡が動くとしても、決勝戦の終った後だろうからね」
「嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ! 金雄さんと一緒にいる!」
アルコールが回っているせいもあるのだろう。ナンシーは子供の様に駄々をこねた。それからまた激しくキスを求め、今度は相当長く続けた。キスが終ると、ぽろぽろ涙を零した。
「頼む、何とかそうしてくれないか。ううう、た、頼む……」
金雄も涙を滲ませながら、必死の思いでナンシーに頼んだ。しかしこればっかりはそう簡単にイエスと言えない。
「私と一緒に逃げましょうよ。それなら良いでしょう?」
「目立ち過ぎるよ。俺はもうすっかり有名人なんだ。ナンシーだけだったら買い物に行った等という言い訳も出来る。そこに俺がいたんじゃ洒落にならないよ」
「だから日本に帰るのはずっと後にして、これから直ぐにでも安川君に頼むのよ。オーストラリア中を逃げて、ほとぼりが冷めたら、日本に帰る。それで良いでしょう? 美穂さんの方もちゃんと手配して置くから」
「……本心を言う。俺はキングと戦いたい。スパルクとも、それから幻の強者とかいう男と、多分男だと思うが、彼等と是非とも対戦したい。
今回のチャンスを逃したら二度と戦えないかも知れないんだ。勿論むざむざと浜岡の凶弾に倒れる事なぞ断じてない! 必ず生きて日本に帰る。だから何とかお願いする。この通りだ」
金雄はナンシーに頭を下げた。
ナンシーは辛くて辛くてどうにもやりきれなかったが、渋々ながら金雄の願いを聞くしかなかった。誰よりも愛している男の必死の願いを聞かない訳には行かなかったのだ。
ナンシーはその夜、今までに無い位激しく金雄と情を交わした。そうでもしなければやりきれなかった。しかし激しく燃えれば燃えるほど、絶望の二文字が頭の中にちらついて来る。
快感に溺れる事で何とか、その二文字の肥大化を押さえ込んでいた。試合の事を考えて一時間ほどの間に悦楽の限りを尽くすと、疲れ果てて金雄は眠ってしまった。