ユミ(25)
『可哀想に受付の女の人、大怪我をしたみたいだわ。桑山さんは大丈夫だったみたいだけど、いよいよ浜岡博士が何か始めたんじゃないのかしら。でも私を狙ったんじゃ無さそうね。どうしてかしら?』
美穂はまだ自分が人質の立場であることに、十分には気が付いていなかった。いや、殺害しなければならないほどの重要性も今では徐々に薄れていたのである。
十二月三十日の夜が明けた。オーストラリアの中央部にあるサンドシティの上空には、珍しく分厚い雲が掛っている。砂漠地帯なのでめったに雨は降らないのだが、天気予報によれば日中小雨が降るとの事だった。
その街の北東部にある流星拳の道場、正式には『流星拳オーストラリア本部』であるが、そこに珍しいお客が来るというのでちょっとした話題になっている。
来るとは言っても、実際には挨拶程度で、彼の目的はロックパイルの記録を作る為だった。その男の名前は『光速のスパルク』。
公式のパイル記録を持っているのが流星拳の道場の者なので、一応敬意を表してとの事らしい。勿論マスコミも一緒にやって来る。
ナンシーと金雄は奥に引っ込んでいて、出て行かない事に決めていた。
「そろそろ行ったかな」
「皆出掛けちゃったわよ。私達はどうする?」
「勿論練習するのさ。帰って来たら、直ぐ止めて奥に引っ込めば良い」
「そうね。でも今日は雨模様で、岩山に登るのは大変よ」
「ああ、そうだな。怪我をしなきゃ良いけどね」
二人が着替えて道場で練習を始めた時、
「御免下さーい!」
大きな声を掛けてどんどん入って来た者がいる。さっぱりした顔の佐伯ユミだった。
「あら、ユミさん。今日は何かご用?」
ナンシーは警戒した。
「ああ、ちょっと皆さんの顔を見にね」
そう言いながら、口の前に人差し指を立てて、声を出さないように合図してから、安川九里男のサインの入った、この前よりかなり大きめの封筒を床に静かに置いた。皆で無言で頷き合いながら、普段を装って会話をし始めた。
「ええと、お留守番? 他の人達は何処へ行ったの?」
「ああ、それなら、皆パイルの方へ行ったわよ。『光速のスパルク』って知ってる?」
「勿論知ってるわ。人気急上昇中のアイドル格闘家になりつつある人でしょう?」
ユミの口調は軽かった。
「アイドル格闘家なんだ。その彼がさっきここに来たのよ。それで皆してパイルに行って、記録に挑戦するらしいわよ。
特に『光速のスパルク』がどんな記録を出すのか、楽しみにしているみたい。マスコミの人達も大勢来ていたわ」
「マスコミが来たの? それでお二人さんは、隠れていたんだ」
「そういうこと。あの連中に見付かったら大変よ」
「ユミさんも行ってみれば? ひょっとすると俺の記録を破るかもしれないし」
「でも小雨が降っているわよ。大した雨じゃないけど、記録更新はかなり大変なんじゃないかしら」
「そうねえ。じゃあここにいる?」
「うふふふ、三角関係の男一人と女二人が一つ屋根の下にいたら事件になるから、私は失礼するわ。じゃあね」
ユミはあっさり帰って行った。
「ふう、妙に素直ね。ちょっと気持ちが悪いけど、……さあ練習しましょう」
「おう!」
二人は最初は身分証を付けたまま練習していたが、練習がハードになって来たことを口実に身分証を外して練習した。
少ししてからナンシーは、
「ふう、一休みするわね」
と言いながらこっそりユミの持って来た袋を開けてみた。
『ははーんそういうことなのね。成る程ねえ……』
ナンシーは頃合を見計らって、金雄に手招きをして中身の説明を始めた。説明文は殆どが英語なので彼女が訳して知らせる事になる。
「ふう、疲れた。休憩しよう」
二人は普通の会話の合間に、例によって耳元で囁き合った。
「浜岡の送ってよこした栄養剤の正体が分かったわ。全部がドーピングに引っ掛る様な薬物よ。多分貴方に勝たせておいて、最後は、ドーピングで失格にする積りなのよ」
「成る程、漸く浜岡の考えが読めたな。俺が強くないと天空会館の名折れになる。それで俺を強くして、優勝かあるいは準優勝位はさせておいて、最後に実は薬漬けだった、勝って当たり前だ、と言う訳だ」
「そんなところね。如何にも浜岡らしいわね。それと、代わりの本物の栄養剤が入っているわ。全てドーピングに引っ掛らないものばかりよ。
今までは飲む振りをするのが大変だったけど、これなら飲んでも当然大丈夫。後でこっそり摩り替えて置きましょう。ああ、それからとうとう地下のムーンシティの事が発覚したみたいよ」
浜岡ももう終わりに近いという目でナンシーは囁いた。