ユミ(22)
「ろ、六分五秒!」
「アアーーーッ!」
出たのは溜息だった。初めてでこのスピードである。慣れれば五分を切るだろう。さっきの福沢花江の大記録は何だったのか。
「ま、参りました。道場の天井を軽々と蹴ったあのパワーは伊達では無かったですね。はははは……」
翔は苦笑するばかりだった。一番ショックだったのは花江だったろう。全力を尽くして新記録を達成したのに、あっさりと破られ、しかも到底越す事の出来そうも無い記録なのだ。
金雄は慰めの言葉も思いつかなくて沈黙した。もう一人沈黙した者がいる。佐伯ユミである。彼女はその後も殆ど喋らなかった。
それから他の者達も岩山の昇り降りに挑戦し、お昼頃に全員来た時の様に号令を掛けながら、ランニングして道場に戻った。ユミだけは着替えて車で佐伯ジムに戻って行った。
他の者は着替えてから昼食を取り、休憩の後再び道着を着て、今度は道場の中で練習を始めた。金雄だけは道場の一角でナンシーを相手に他の道場生達とは別メニューで練習をしていた。
その凄まじい迫力に誰も側に寄れない状態でもあった。その日の練習も無事に終わり夕食になった。夕食後にお茶とお茶菓子で寛いでいると、かなりめかし込んだユミが車でやって来て、金雄の側に来た。
「私、エムさんと結婚したいです。エムさんの子供を作りたい!」
またしても爆弾発言をした。
「ブッ!」
何人かの特に男の内弟子達はお茶を噴出してしまうほどに驚いた。
「アアーーーッ! す、済みません」
噴出した数人の男達はティッシュなどで自分達も拭いたが、女性の内弟子二人が慌てて、布巾を持って来て、丁寧にテーブルの上を拭いた。
「前にも言いましたが、俺はユミさんと結婚する気は無い。そういうことなので諦めて貰いたい」
金雄は困った表情で、しかしはっきりと言った。勿論内心では、
『良い度胸だ。二人きりでもなかなか言えない事を皆の前で堂々と言うとはね。翔さんが惚れるのも無理は無い!』
等と強く感じていたのだがそれを口に出すと、ますます厄介な事になりそうだったので、言う訳にもいかなかった。
「私の気持ちをはっきりと言いました。諦めろと言われても簡単には諦められません。ああ、それと……」
ユミはナンシーに無言で手紙を渡した。手紙の表に安川九里男のサインがあり、英語で『NO VOICE』と書いてあった。
『声を出すな、という事ね。ここで読むのは不味いわね。ユミの事が気に掛かるけど、もう金雄さんの気持ちは動きそうも無いわ。だったらトイレで……、いえそれも不味いわね、そうだわ』
ナンシーは上手い方法を思いついた。
「ああ、済みません。あのう、ちょっと今日は何だか疲れちゃったので、先に休ませて貰いたいのですが宜しいでしょうか」
ナンシーは早めに寝ると言い出した。本当に寝る訳ではなく身分証を外して手紙をこっそり読む為である。
「ああ、どうぞ。エムさんの練習相手をしてお疲れでしょうから。ここは構いませんから」
翔はユミの言葉に動揺した様子も無く、ナンシーを気遣った。
「じゃあ、私達もこれで」
男の内弟子達も自分達の部屋に戻って行った。女達がテーブルの上を片付けた。
「他に何か御用が御座いますか?」
「いや、もう休んでくれていいよ」
翔の言葉に二人の女性の内弟子達も、
「それではお休みなさい」
きちんと頭を下げて部屋に戻った。残されたのは翔とユミと金雄の三人である。
「私、金雄さんにまだお話がありますから、翔さんはお休み下さい」
「いや、俺も休ませて貰いたいんだがね。ナンシーとあれなんで」
金雄は暗にナンシーと情交する事を匂わせた。何としてでも諦めて貰う意味があった。
「その前に二人きりでお話したいのですが」
「それじゃあ、私は遠慮するから。エムさん、ユミさんを宜しく頼みます」
翔は内心穏やかではなかったが、目を瞑る事にした。仮に何かあったとしても、エムはもう直ぐここからいなくなるのだ。
ここで狼狽して取り乱したのではかえってユミに嫌われる。それよりも悠然と構えていた方が結局は得策だと感じた。
『必ずユミは自分の所に戻ってくる。曲がりなりにも何度もこの腕で抱いたのだからな!』
不安な心をより大きな自信で包み込んで、翔はゆったりとした足取りで部屋から出て行った。
それから少し間を置いて、
「お話なんて本当は何も無い!」
小さく叫ぶと、ユミは金雄に抱き付いた。そして背伸びをしてキスを求めた。しかし金雄は彼女の唇を手の平で遮ってキスを拒否した。ユミは構わずにその手の平にキスをしたのだった。