ユミ(21)
「はい。裏側からなら歩いても登れるんですが、それじゃ練習になりませんから、手前の崖を一日一回は登るのが、私達の日課になっています。
そこにある小さい岩のところから走って行って、岩山、ああ、通称ロックパイル、岩の杭、という名前で、私達は単にパイルとも呼んでいますが、その上に立ってからまたここに戻って来るまでの時間を競っているのですよ。
たまに落ちて怪我をする者もあるので自信のある者にしかやらせないのですが、これは格闘技の強者が早いとは限りません。
うちで一番早いのが実は女子の福沢花江さんなんですよ。彼女はご覧の通り小柄なので身が利くし、その割に腕力があるので早いのでしょう。
先ず彼女に登って貰いましょう。彼女の過去の最高記録は九分五十九秒でした。この記録が当道場の最高記録であり、年一回行われる、一般参加者の記録も含めて、パイル記録にもなっています。十分を切ったのは彼女唯一人です。普段はまあ十二、三分位でしょうか」
翔は淡々と言った。
「往復の時間なんですか?」
「はい。とにかく福沢さんにやってみて貰いましょう。じゃあ福沢さん、お願いしますね。怪我の無い様に頼みますよ」
「はい、翔先生。今日は天気も良いし、最近私も調子がいいので、ひょっとすると良い記録が出るかも知れません」
「それじゃ、用意、スタート!」
翔はストップウォッチを作動させて花江の後姿を見送った。相当に気合が入っているのは、金雄を意識しての事だろう。
せめてこれだけでも金雄に勝ちたいという気持ちが見えた。目印の小さな岩から五メートルほど離れた所から登り始めて、花江はするすると登って行く。
直進は先ず出来ない。右や左にコースを変えて登って行く。登り切った所で一旦手を振ってそれから降り始める。
「うん、早い! 五分を切っている。これなら新記録が出るかも知れないぞ!」
ストップウォッチを見ながら翔は興奮気味に叫んだ。
「良いタイムだ、頑張れ、記録が出そうだぞ!」
他の内弟子達も興奮気味に声援を送っている。
「九分経過! もう少しだ! そこから飛び降りろ!」
翔も興奮して、叫んだ。花江は三メートル程の高さから飛び降りた。それから全力で走り転がる様にしてスタート地点の小岩にタッチした。
「九分二十秒! やった! 新記録だ。物凄い記録が出たぞ!」
「ウオオォーーーッ!」
内弟子達もユミもナンシーもそして金雄も拍手喝さいして新記録達成を祝福した。
「ヤッターッ! 嬉しい! うううっ!」
花江は感激の余り泣き出してしまった。
「いやあ、こんな良い記録の後ではやりにくいでしょうが、ものは試しですやってみてくれませんか?」
翔は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)で金雄に言った。金雄は少し困った。負けるのなら良いのだが、万一勝ってしまうと、さっきの感激が興ざめになる。
といってわざと負けるのではむしろ無礼だろう。彼等は大樹海の厳しさを知らないのである。大樹海といっても木ばかりある訳ではない。
山あり谷あり当然の様に崖もあるのだ。その中を人間離れしたスピードで走り回って来た、彼の過去を知らない。
ちょっと躊躇ったが、意を決してやることにした。花江の登り方で大体の所は掴めている。
「じゃあ、行きます。ところで下りる時に、途中から一気にこの小岩の所まで飛んで降りても良いですか?」
「えっ、け、怪我をしますよ」
「勿論怪我をしない様にしますが」
「ま、まあいいでしょう」
流星拳の面々の顔に不安が過ぎった。
『今のこの記録を破ろうというのじゃあるまいな! 世界記録なんだぞ。一年に一度の記録会には世界中から腕に覚えのあるロッククライマーたちが集まって来るんだぞ。それを超えるというのか。まさかな……』
道場生の殆どがそう思った。ユミの頭の中にさえ、それに似た気持ちが沸き起こっていたが、
『有り得ない、絶対に!』
そう強く否定した。
唯一人ナンシーだけは余裕の笑みを浮かべていた。
「うふふふ、翔さん、ちょっと顔色が青いわよ。余り躊躇しているとまた野次馬達に嗅ぎ付かれて大変だから、早くして頂戴」
「わ、分かった。それじゃ、用意、スタート!」
「ウリャーッ!」
金雄は気合を入れて走り出した。スイスイと崖を登って行く。明らかに花江のスピードを上回っている。
「よ、四分経過!」
金雄はもう頂上で手を振っている。降りるスピードは更にぐんと早い。
「ろ、六分経過!」
金雄はなんと七、八メートルの高さから飛び降りた。ピッタリスタート地点に飛び降り、小岩にタッチした。