逆カルチャーショック(3)
ステーキ定食には御飯と味噌汁とお新香が付く。ナイフやフォークなどの他に割り箸も付いて来る。
『ひょっとすると割り箸を上手く使えないんじゃないのかしら?』
もしそうだったら、自分が丁寧に教えてやろう、と思っていた。しかし金雄は割り箸は上手に使いこなした。美穂には金雄の正体がますます分からなくなった。こうなったら直接聞くしかない。
「金雄さん、住所は何処かな?」
「ええと、それはその……」
「言いたく無ければ無理には聞かないわ。うーん、学校は何処? 大卒? それとも高卒? それとも……」
「学校には行った事が無いです」
「ええっ! 小、小学校も?」
「はい、幼稚園にも保育園にも行った事がありません。母親と二人きりで暮らしていましたから」
「えーーーーっ!!」
美穂の逆カルチャーショックは爆発した。
小学校に入って間もなく不登校になった話は聞いた事がある。しかし目の前に居る青年はそれ以前の段階なのだ。一体母親と二人きりでどうやって生きて来たのか、聞かずにはいられなかった。
「ふーっ!」
一つ深呼吸してから聞いた。
「そのお母さんて今何処に居るの? 差し支えなかったら教えてくれないかしら」
「うーん、美穂さんは信用できる人だと思うから、……全部お話します。……大樹海って知ってますか?」
「勿論知ってるわ。ここ北中山シティから三百キロ位北にある広大な森林地帯の事でしょう?」
「はい。そこで俺と母さんはずっとテント暮らしをしていたんです。時々移動しながらですけど」
「な、な、何ですって!」
美穂には信じられなかった。文明と完全に遮断された状態で、たった一組の母と子が何年間も生き続けられるだろうか。大樹海の生存環境は極めて厳しい。常識的には有り得ないのだ。
「今もそこでテント暮らしをしているの?」
「母さんは俺が小さい頃、多分十才ぐらいだったと思うけど、日用品を買いに行って来ると言って、出て行ったまま帰って来なかったんだ。ひょっとすると捨てられたのかも知れない」
「ああ、ま、まさか!」
美穂は絶句した。
「……そ、その後は誰かに引き取られたんでしょう?」
やっとの思いで美穂は聞いてみた。
「いえ、その後ずっと一人で暮らしていました」
「う、嘘だわ。あんな所に一人で暮らしてたら死んじゃうよ。何より恐ろしいのは自然現象じゃなくって、野生化した犬の群れだって聞いた事がある。あいつ等に狙われたら最後、どんな屈強な男でも、銃でもない限り生きて大樹海から抜け出せないって」
「銃はありませんが罠があります。テントの周りに沢山仕掛けておくと、あいつ等は賢いから罠に気付いて寄って来ないんですよ」
「罠があったの?」
「はい。テントの中には沢山の物がありました。罠の他にも、食料や暖房器具、簡単な調理の道具もあったし、何より沢山の本があった。
本と言ってもコンパクト化された情報機器具類ですけど。ああ、それと誤解されているみたいだから言っておきますけど、俺と母さんは月に何回かは街に買い物に行ってたんですよ。何事も経験だと俺一人で行かされた事もあったし、母さん一人で行った事もあったけど」
「あ、そ、そうなの。私はてっきり、じっと大樹海の中で息を潜めて生きていたのかと思ったわ。何だ、時々街に出てたんだ」
美穂は少し安心して言った。
「でも行くのは何時も同じ大型スーパーで、それ以外の場所には一切行った事がありません」
「そうか、それで常識的な事が分からなかったのね」
「はい。例えばテントの中に傘は有りませんでした。傘がどんなものなのか知ってはいましたが、実際に使ったのはさっきが初めてだったんです」
「う、うううっ!」
不意に美穂の胸に込み上げて来るものがあった。
「ど、どうしたんですか?」
美穂の目に溢れかかっている涙を見て金雄は少し慌てた。
「あ、な、何でもないの。ちょっとした事で直ぐ涙の出るタイプなのよ。……でも買い物が沢山だと運ぶのが大変じゃないの?」
「リュックと鞄とでかなりのものが入りますよ。テントからスーパーまでは割合近いから、多分一番近いのがそのスーパーだったんだと思いますけど、慣れて来ると結構楽しかったですよ」
「近いって何キロくらい?」
「母さんは二十キロって言ってました。往復でやっとオリンピックのマラソンの距離と同じ位だから全然近いって言ってました」
金雄はケロリと言ってのけた。