ユミ(7)
「元々、彗星拳というのは流星拳の一分派だった。しかし経営が上手で何時の間にか本家よりも有名になった。それだけの事だ。
ルールとしては完全に素手で行う。投げや関節技も認める。最も荒々しい拳法だと思って頂ければいい。そのルールで行きますか? それとも防具を使いますか? どちらでも結構。どうします?」
安藤翔は自信満々に金雄に言った。
「そうですねえ、じゃあその荒々しいルールで行きましょうか。試合時間は五分で良いでしょうか?」
「ああ、十分だ。断って置くが、肉離れを起したり、骨折したりするかも知れないがそれでも良いか? そうなった場合、世界選手権には出られなくなるぞ」
「承知の上です。レフリーは佐伯竜太さんにお願いしても宜しいですか? 格闘技の経験がおありのようですから」
「ああ、いいだろう。待っているから直ぐ着替えて来て貰いたい」
「それじゃそうさせて貰いましょう」
テレビでお馴染みのエムの姿、市販されているスリムな道着に着替えてリングに上がった。
『ユミさん余りショックを受けなければ良いのだけれど』
ナンシーにはリング上の二人よりも、ユミの受けるであろうショックの方が気になっていた。カチンと来る所のある女性ではあるが、彼氏が無様に負ける姿を見たい者は居ないだろうと、少し同情したくなる気分だったのだ。それ程の差がある事をナンシーは既に見切っていた。
「それでは、互いに礼! 始め!」
佐伯竜太のにわかレフリーで、いきなり試合は始まった。細かいルールは詰めていないので判定の場合には少し困るのだが、五分経っても決着が付かなければ、引き分けで良いだろう位に、竜太は簡単に考えていた。しかしその必要は全く無かった。
金雄の突進するスピードに誰もが驚いた。一番驚いたのは安藤翔だったろう。走り掛けた時にはもう目の前に金雄がいたのだから。
「バン、バン、バン、バン、バン!」
ほんの一秒の間に、五回の打撃音が聞こえた。腹部に金雄の強烈なパンチが炸裂したのだ。全てが速過ぎて、防御の暇が無かった。腹の辺りを両腕で押さえたまま翔はその場に崩れ落ちた。白目を剥いていて完全に失神している。
レフリー役の竜太は、
「エムさんのK・O勝ち!」
と宣言すると、
「タンカ! タンカ!」
と叫んだ。娘のユミが慌てて走って行って、用具部屋からタンカを持って来た。
「悪いがあんたも手伝ってくれないか」
竜太は金雄に頼んだ。
「ああ良いですよ。医務室とかあるんですか?」
「いや、こんな時の為に、と言っちゃああれなんだけど、直ぐ隣が病院でね。弟がやっているんですよ。本職は内科なんだが今じゃ何でもやりますから重宝しているんですよ。じゃあ良いですか?」
「はい」
二人がタンカに翔を乗せている間に、ユミとナンシーはリングから下りる為の階段を設置し、更に他の連中にも手伝って貰って、渾身の力でロープを広げてタンカを運び易くした。
タンカで運ばれた翔にはユミが付き添うことになった。ジムに戻って来た金雄を今度は畏敬の念で見つめる多くの瞳があった。
「あ、あのう、安川です。試合を見るまでは半信半疑でした。エムさん、す、凄いです。あれはトリックではなかったんですね。 ……あ、あのう握手して下さい」
広いオーストラリアではあるが、大半は砂漠である。サンドシティも名前通りに砂漠地帯であることもあって外の気温は四十度Cを超えている。
にも拘らず安川九里男は上下とも真っ黒な服装だった。丈の長いズボンに長袖のシャツを着ている。布地がごく薄いので夏向きの服なのだが色は如何にも暑苦しい。白っぽい服装の多い中にあって、目立ち過ぎるほど目立っていた。
「ああ、いいですよ。安川君には色々世話になっているし」
「ごほっ、ごほっ!」
ナンシーがわざとらしく咳払いをして言い過ぎに注意した。彼女に預かって貰っているとはいえ、身分証は直ぐ側にある。迂闊な話は盗聴されていて危険である。
「ワタシニモ、アクシュシテクダサイ」
二人いる女性のうちの白人の女の子が、片言の日本語で金雄に握手を求めた。そこに集まった十数人のナンシーファンのうちの三分の二は、日本人かまたは日系人である。残りが外国人である。
全員が金雄とナンシーの二人と握手し、サインを貰って大喜びで帰って行った。金雄は生まれて初めてサインしたが、どうすればいいのか分からずにナンシーに教えて貰って大汗を掻きながらサインした。勿論ここにエムがいることは秘密である。
『でも、多分三、四日位でばれちゃうわね。ああ、年末年始は何処に行けば良いのかしら? 頭が痛いわね……』
先の事を考えると憂鬱になるが、取敢えずはここに泊まるしかない。金雄が着替えて来てから、竜太と三人で今後の話をした。