知恵のある野獣(1)
アジアの南東に日本名で南国島と呼ばれる島がある。さほど大きくは無いのだが、その割には高い山々が連なり緑溢れる美しい島である。
平地は少なく僅かに北方の湾に面した海岸地帯のみが開けている。そこに十数年前、アジア南部一帯の格闘技の総本山『南国格闘会館』が創設された。
南国島には数多くの日系人が住んでいて、その日系人達が中心になって、特に資金面での多額の援助があったので名称は日本語になっている。
それから遅れる事およそ十年、アジア北部の巨大な樹海、『大樹海』の南の麓に雪国を思わせる白亜の格闘技の殿堂『天空会館』が設立された。
ここはアジア北部の格闘技の一大拠点である。南国格闘会館が数多くの格闘技の団体の集合体であるのに対して、天空会館は唯一の団体の拠点であった。
天空会館の創設の中心は、前世紀最大の格闘家と言われた、日本人の『天の川光太郎』である。彼はほぼ一代で今日の地位を築き上げた伝説の人物でもあった。
アジアの格闘技界はこれらの勢力によって、二分されていると言っても過言ではないだろう。無論世界には他に様々な格闘技の団体があるが、この二つは取り分け大きく、特に天空会館は単独では世界最大の格闘技の団体になりつつあった。
天の川光太郎が館主を勤める、今や飛ぶ鳥を落とす程の勢いと言われる天空会館に、一人の男が訪ねて来ていた。
着古した道着と、よれよれで変色した白帯だけでもむさ苦しいが、髭も髪もぼうぼうに伸び放題で、まるで野獣が服を着て立っている様だった。それでも受付で彼はちゃんと言葉を話した。
「あのう、天の川光太郎さんと試合をしたいのですが」
「ええと、ご予約はありますか?」
受付嬢の大森かなえは男の風貌や、いきなり館主と試合をしたい等と非常識な事を言われたので門前払いにしたかったのだが、言葉遣いが丁寧だったので仕方なく応対した。
「予約は無いのですが」
「それじゃあこの用紙に住所氏名と電話番号、それから所属する格闘技の団体名等を書いて下さい。ああ、年齢、性別、段や級がありましたらそれも書いて下さい。先生にお会い出来る日時が決まりましたら、こちらから連絡を差し上げますから」
男は用紙を受け取ると困った様な顔をしていたが、何か書いてかなえに返した。
「な、何ですかこれは! 名前がエムで住所が空家ですって! 貴方、私を馬鹿にしてるんですか!」
かなえは激怒した。
「いあや、そんな積りではないんですが……」
「申し訳ありませんがお帰り下さい!」
「相当の覚悟を決めて来たので戻る訳には行きません!」
男も少し声を荒げた。もうこれ以上は埒が明かないと判断したかなえは、デスクの下のボタンを押した。警備員の呼び出しボタンである。
受付の直ぐ隣の部屋が警備員の詰め所になっている。すぐさま二人やって来た。別に男が暴れている訳ではないので彼らは穏やかに接した。
「かなえさんどうしました?」
かなえは事情を話しエムと空家としか書かれていない用紙を見せた。二人の警備員は苦笑した。そして次には厳しい口調で言った。
「困りますね。天空会館はお前のような者の来る所ではない!」
「誰であっても人間であるならば入門可能だ、と俺の読んだ本には書いてあったが違うのか!」
「だったら正式に入門すれば良い!」
「俺が入門するのに相応しいかどうか、館主と手合わせしてから決める!」
「何だと! てめえ! こっちへ来い!」
ついに二人の警備員も激怒し男を強引に詰め所に引っ張って行こうとした。しかし男は動かない。堪忍袋の緒が切れた二人はいきなり男に殴り掛かった。
「バン! バン!」
凄い音がした。しかし倒れたのは二人の警備員の方である。二人共、顎を押えて悶え苦しんでいた。