狐憑1
肺水腫を伴う鬱血性心不全になった患者の処置を行い、ようやく落ち着いたので村山はICUを出る。
(……あ)
暗い廊下を歩いていると、目の前に篠田の背中が見えた。
彼も急性脳梗塞の患者とさっきまでICUにいたので、やっと一区切りついたのだろう。
「お疲れさまです」
後ろから声をかけると、相手は顔だけをややこちらに向ける。
「お互いな」
珍しく憔悴した様子に村山は問う。
「……例の集団発作、あれ、まだ続いているんですか?」
緑の術衣の相手は、ため息をついた。
「正体のわからんものほど、世の中に怖いものはない」
一ヶ月近く前、北町の南側、以前、暁の家があった場所から少し山を下ったところにある住宅街で、突然、三家族十人が不安発作あるいは痙攣を起こして彼の病院に担ぎ込まれた。
血中に薬物反応はなく、身体におかしなところもない。
そうこうするうち、二週間前に同じ症状で今度は彼の町の北部、つまり病院の東へ約二キロほど行った場所の住宅街で同様の患者が出た。
このときは三人。
当初は内科と精神科が治療に当たっていたが、三日前に今度はさらに東にある町工場の作業員が二十人ほど担ぎ込まれて来た際には、脳外科まで動員された。
「パニック障害以外の何物でもないような所見なんだがな」
「集団というのが変ですよね」
一応、隔離はしてあるが、その疑いをもたらすような懸念は全て排除されていると村山も聞いていた。
「今のところ、集団催眠の可能性が捨てきれないって、警察でも調査してくれているんだが……」
篠田のピッチが鳴った。
「……え? 狐のシゲさん? こんな時なんだから頼むよ、お前がなんとかしてくれって……………いや……わかってる。すぐ行く」
物問いた気な村山の視線に、ピッチを切った篠田は肩をすくめて歩き出した。
「南東町に住む狐憑きの婆さんが来たらしい。発症したのは随分以前らしいんだが、来院したのは数ヶ月前だ。で、それ以来、時々やってくる」
田舎にはたまにそういう人がいると耳にしたことはあったが、近隣にいると聞いて少し村山は驚く。
「……何で脳外科に?」
解離性同一性障害……一般には多重人格あるいは憑依と呼ばれるその症状は、精神科の領分だ。
「たまたま三度目の発作が起きた日に俺は救急にいた。そのときに治してしまったのが運の尽きさ」
彼はため息をついた。
「どうしてか俺だけは薬物なしに速攻で治せるって言うんで、最近では彼女が夜に来たら絶対に呼ばれる」
村山は頬に笑みを浮かべた。
「向学のために治療法をお教えいただけませんか?」
「肩を三回叩き、戻っておいで、シゲさん、って声をかける。そうすれば治療は完了だ」
「……なるほど」
「だが、お前がやって効くかどうかはわからん。もう何十人と同じ事を試しているが、どうしてか俺しか呼び戻せないんだ」
「詐病じゃないんですか?」
「精神科は違うと言ってる。……じゃ」
「行ってらっしゃい」
エレベーターの前で立ち止まった村山に手を挙げ、篠田はそのまま去って行った。
副院長候補として名前が挙がり、今、理事会でその話が検討されていると言うことで、篠田の身辺はそれだけでも忙しい。
その上、日々の業務に脳卒中の緊急手術、狐憑き、突発的奇病とくればやつれるのも無理はなかった。
(……奇病、か)
自分が担当でなくて、本当に良かったと思う。
(……訳のわからないものは苦手だ)
彼はそのまま病棟に行き、受け持ち患者のバイタルデータを見た後、一度医局に戻ることにした。
(……腹減った)
机の中の常備食に思いをはせながらエレベータを待ったが、一階で止まったままである。
(……階段を使うか)
待つのも嫌で廊下を歩き、切れかけて瞬いている非常灯の下、重い階段の扉を開ける。
「ん?」
古いせいか、ギギッという鈍い音がした。
ドアクローザから油は漏れていないようなので、ネジの緩みをとれば直るかもしれない。
ネジ穴の形と大きさを確認し、村山は階段を上がる。
(工具箱は医局にないし……家から持ってくるしかないか)
見上げると、上の階の緑の非常灯がもの悲しく瞬いた。
こっちも球切れのようである。
(どこもかしこもお疲れだ)
しかし、ドア上の非常灯も点滅していたということに思い当たり、村山は少し感心する。
非常灯は過去、一斉に電球を取り替えられたのではないだろうか。
それが同時に切れるということは、寿命がほぼ一緒、つまり製品の品質ばらつきが極めて小さいということになる。
(……さすが日本製)
村山が独りごちたその時だった。
「?」
ちょうど踊り場付近に差し掛かっていた彼が気配を感じて見上げると、上の階あたりに見知らぬ老婆が屈むように立っている。
老婆は村山を見て、にたりと笑うと一足飛びに彼の側まで降りてきた。
「え?」
老人だと思って油断したのがいけなかった。
伸びてきた腕を押さえようと手を出したが、凄い力に弾かれる。
「うわっ!」
老婆の両手は彼の首にかかり、その衝撃で村山は後頭部をのけぞらせた、と、
「ぐっ!」
ごんという鈍い音とともに、目の前が暗くなった。
後頭部を壁に強打したのだ。
「っ!」
朦朧とした途端、今度は足をすくわれてそのまま肩から転倒する。
老婆は彼の上に馬乗りになり、今度こそその喉首を締め上げた。
「やっと、やっと見つけた」
その目を見た途端、電気が走ったように手足がしびれた。
必死で村山は老婆を振り払おうとしたが、どうしてか身体はほとんど動かない。
「ケッカイが切れたお陰だ」
(……血塊? 切れる?)
その言葉から想起されるものとは血管系疾患、あるいは……
(痔?)
再び老婆は口を開けて笑った。
そうして彼の首に噛みつくかのように、そのまま歯を近づける。
「随分……そう、随分待った」
「……や、やめ」
かろうじて声を絞り出したがそこまでだった。
息が苦しい。
「……涼っ」
そうして彼を呼ぶ声が遠くから聞こえて……