餌3
「先生」
廊下を歩いていた明石を呼び止め、彼は横に並んだ。
「小金井先生とはチームを変えて下さい」
「それはできない」
「どうしてですか?」
「そっちのチームはある程度自由にやれる技量があるメンバー、こっちは俺が教えてやることが多いメンバーだ」
技量がどうなどという会話に突入すると、論理で負けることはわかっていた。
「お願いです。どうしても駄目なんです」
「……何故?」
「その」
汗が脇を流れる。
今なら嘘をついても自分に分があると彼は判断した。
「セクハラが酷くて」
ふと見ると、第二外科の医局の扉が微かに揺れた。
(……話を聞かれたか?)
こんなところで話すような話題ではなかったと後悔したが、背に腹は代えられない。
(むしろ、このことを利用して本当にここに居られなくしてやる)
小金井は何としても追い出さねばならなかった。
そうでなければ安心して病院勤めなどできやしない。
「……考えておこう」
明石はエレベーターの前で立ち止まってから、微かに首をひねった。
「また、詳しい話を聞かせてくれ。少し腑に落ちない点もあるし」
同じ階に停まっていたため、目の前の扉はボタンを押すとすぐに開く。
「はい」
エレベータに乗り込んだ村山は、病棟とは違う階を押した。
「……俺は六階だ」
村山はエレベーターのボタンに背を向け、明石に対峙した。
「……ところで、この前の虫垂炎の患者さんの件ですが」
明石は顔をしかめた。
「六階を押してくれ」
「カルテを篠田先生に見せて頂きました」
さらに相手は不愉快そうな顔になった。
「……救急で切迫してる時に、あれだけカルテに事細かく書いてたってことは、相手が詐病だってわかってたんでしょう?」
「どけ」
エレベーターが止まったので、村山は明石の手首をつかんで引っ張った。
「……村山」
「何故です?」
その階は検査室とリネン室、あと動力関係の部屋からなっている。
新館と旧館の間に救急棟ができるまでは小規模の集中治療室と処置室のあった階なので、生検や手術室が塞がっているときの小手術などはここで行われる。
内視鏡検査の準備などがあれば人が来るが、今は静かだ。
「何故、嘘だってわかってたのに、それを言わないんですか?」
「嘘かどうかを判断する術は既にない」
「百パーセント、嘘だってわかってたんでしょう? 出て行った患者さんの手術を行った病院は正常な虫垂を摘出したんでしょう? 何でそれを言わないんです?」
様子見を主張した明石に、患者はすぐに切って欲しいと、そうでなければ伝手のある他の病院に行くと騒いだ。
恐らく明石が切れば、便秘を虫垂炎と勘違いしたという誹謗を流し、手術しなければ、今回のように事前に言い含めた病院で詐欺を行うという手はずだったのだろう。
しかし、明石は笑った。
「どうせ開けるんなら、虫垂なんざ取っておくのが親切というものだって習わなかったか?」
村山は深呼吸をし、そして声を絞り出す。
「ここが仮の宿だから、他人事みたいでいられるんですね」
明石は笑みを消した。
「出て行くなら跡を濁さないでいただきたいものです。それでなくても篠田先生に相当心配かけているんですから」
篠田が明石のアキレス腱であることを充分承知で村山は責めた。
明石が村山を憎もうが怒ろうが別にどうでもいい。
「篠田先生はあの患者についても、靴の中に入っていたバイアルのかけらについても必死で調べてる。先生に傷をつけないために。それなのに当のご本人は病院の評判がどうなろうがお構いなしに黙秘する」
明石はエレベーターの上へのボタンを押す。
その場に待機していたエレベータ-はすぐに扉を開けたので、明石は乗り込んだ。
「ついでに言うと、先生がこの病院を出て行って喜ぶのは篠田先生の敵だけですから。外科部門について篠田先生は医師を増やしたり、大学を切ったりと色々画策したが、結局何にもならなかった、ってね」
明石は口を開きかけたがそのまま黙る。
そして、その瞬間扉が閉まった。
(……これでいい)
篠田を餌にするのが最も確実だと村山は知っている。
むしろ、そのために篠田が単独で動くのを容認したのだ。
村山は唇を噛んで、階段の方に足を向けた。




