餌1
出勤途中に電話のベルがなった。ディスプレイを見ると、英莉子からだったので村山は電源を落とす。
先日、病院の帰りに待ち伏せされて会話をせざるを得なかった時を最後に一度も声を聞いていない。
(……聞きたくもないが)
あの日の英莉子は微かに笑みを浮かべていた。
「私たちは互いに良好な関係を築いてるって思ってたのに、残念だわ」
そうしてわざとらしいため息をつく。
「まさか貴方に陥れられるなんて」
英莉子の悪行を過去に遡って露わにし、彼女が所属する組織から彼女が追われるようにしたのは確かに村山だ。
小金井の件が一段落したと判断し、以前からのプランを実行に移した。
と言っても、英莉子がいつもやっている手段をそのまま真似たにすぎず、オリジナリティは欠片もない。
「それとも、萌ちゃんたちに手を出したから怒っちゃったの?」
英莉子は長い黒髪を左手でかき上げた。
「貴方のせいで二人の活躍場面を見損ねたってことは、やっぱりそこに逆鱗があった訳よね」
「本当に俺は君が何を言っているのかわからない」
村山は目を細めた。
「これ以上、つきまとうのはやめてくれ。でないとしかるべき措置をとらせてもらう」
「例えば?」
村山は電話をポケットから出す。
「110番」
「仕方ない……か」
英莉子はまたため息をつく。
「しばらくはどこか遠くで身を潜めなきゃいけないから、貴方を監視することが難しくなる。だったら残念だけど、貴方が他の誰かのものにならないように手を打たないと…………ね」
そして再びにこりと笑った。
「その場合は、できるだけ素敵な演出を考えるから、楽しみにしてて」
彼は微笑んだ。
「お前が視野から消えるなら、何をしてもらっても結構だ」
きびすを返した背を一瞥し、村山も帰路につき……
「……だよな」
「……え?」
我に返った村山が横を見ると、整形外科の山中が笑いながら下駄箱に靴を入れた。
「例の木鳥さん、村山先生、村山先生って連呼してるそうじゃないか」
顔をしかめた村山を見て、山中はにやにやとした。
「モテモテだな」
「……困ってるんです。それでなくても俺が変な薬を横流ししているみたいな言われ方して」
その迷惑な患者は、山中が救急当番の日に夜間来院した。
何かでひどく殴られたらしく腕が見るからに腫れていたことから、薬が欲しいという主訴とは別に山中はX線を撮り、骨折の治療をした。
もちろんそれだけなら普通にあることだが、問題はその彼女がいきなり村山の名前を告げて、呼べば薬がもらえるはずだと嘆願したことだ。
しかも一時入院させ、その両親に連絡を取ったら家出少女だったらしくてさらに大騒ぎになった。
「本当に俺、知らない子なんですけど」
「その誤解はとっくに解けてるから安心していいよ。友達の男の子がついた嘘だってわかってるから」
「実のところ、その友達の男の子、っていうのも知らないんです」
名前を聞いたが記憶にない。顔を見ていないから全く面識がないとも言いづらいが、ほぼ他人であることは間違いない。
山中は村山と一緒に歩きながらもう一度笑った。
「一時、イケメン外科医とかで騒がれたから、それで結構名前が知れてるんじゃない? だって、麻薬中毒で入院してる患者、木鳥さんだけじゃなく、みんな村山先生のファンらしいよ」
村山が眉をひそめると、さらに彼は笑いを濃くする。
「羨ましいなあ。俺もあやかりたいなあ」
「冗談きついです」
村山はため息をつき、エレベーターのボタンを押す。
「ところでさあ、イケメンと言えば、明石先生は元気?」
村山は山中に肩をすくめる。
「俺、最近、カンファレンス以外ではほとんど話をしたことがなくて。山中先生の方がよほど喋ってるんじゃないですか?」
たばこを吸う仕草をすると、山中は不思議そうな顔でこちらを見た。
「何言ってる? 明石先生は随分前に煙草をやめたぞ」
「え?」
山中はおかしそうな顔でエレベーターに乗り込んだ。
「村山先生って物知りなんだか無知なんだか、時々わからないことあるよね。何月何日に誰が何したかを意味なく覚えてるくせに、誰もが知ってる世間話とか、全然知らなかったりするし」
病棟は階が違うが、医局は同じフロアにある。
「ま、明石先生はアメリカ帰るって噂もあるし、リハビリかもね」
「え?」
「ほら、あっちの病院って、完全禁煙なんだろ? 聞いた話じゃ、日本に帰ってる間だけ煙草吸うって決めてたらしいから」
「……そうなんですか」
エレベーターが止まり、二人は降りた。
「じゃ」
整形外科と脳外科の医局はエレベーターを降りた左手、第一外科と第二外科は右手にある。
なので彼らはそこで別れた。
(……日本に帰ってる間だけ、か)
もう一度深いため息をついた後、村山はいつもの扉を開けた。




