封印の守り1
「萌が呼んだらいつでも来るから。だからもし、危険なことがあったりとか、困ったことがあったりしたら呼んでくれ。絶対にすぐ来る」
そう言い置いて、高津は消えた。
呆然と窓の外を見つめていた萌を、妹は変人扱いしたがそんなことは構わない。
(……本当に、ありがとう)
心から思う。
それほど気にしていないつもりではいたが、予備校はストレスになっていたのだろう。
小学校から一緒の百合子や和実が側からいなくなって初めて、萌は自分が一人だと気づいた。
知らない人間と話をするのが不得手で、緊張するというこの性癖。
浮いてしまう自分を発見されるのが怖くて、会話するぐらいならいっそ物陰に隠れていたいと思うような。
そんな萌が自分から会話をしようと試みたのは、生死をかけたあの夢の中だった。
本当なら、それをきっかけにもう少し頑張ろうと思えば思えたはずだ。
(……なのに)
あんなシチュエーションでなければ、きっと村山や高津には機会があっても声などかけられないし、話などできなかったと思いこみ、その後も努力はしなかった。
伊東や藤田みたいに自分から話しかけてくれる人間だけを相手にし、その他大勢は背景として扱った。
(全部、自分のせい)
それが、人と積極的に関わるようなことを極力避け、そしてコミュニケーション能力を鍛えずに放置したツケだとようやくわかる。
そんな萌を、高津や伊東が黙って側にいることで静かに守ってくれていたことにようやく気づく。
高津は言った。
……萌じゃなくても、例えば村山さんや暁、そして夕貴に何かあっても同じだ。呼んでくれたらすぐに俺は萌の所に跳んでくる……
萌が萌のことしか考えていないときに、高津はいつも周りのことばかり気遣い、そして萌の居場所まで造ってくれた。
(今度もそう)
萌は自分を恥じた。
(……生き方を選ばないと駄目)
目立つことを厭わず孤高に生きるか、大勢の思惟の奔流の中を沈まないよう泳ぎきることによって、目立たぬように頑張るか。
(……さしあたっては、前者で行く、か)
割り切ってしまえば、知人のいない予備校は余計なことを考えずに大学入試に専念できる場所となる。
気晴らしが必要なら、月に二回ほど川上のレストランに行けばいい。
つながりが必要なら、家族、そして高津や村山を思えばいい。
そうして、仲間の役に立つための力だけを養えばいい。
コミュニケーション能力については高津が言うように、皆がそれを行おうとする大学一年の最初の教室から磨けばいい。今、慌ててそんなことにかまけなくても……
(……うーん)
萌は考え込む。
(それって、逃げだよね)
今がうまくいかないから切り捨てようというだけ。やるべきことは、今からでもやった方がいいのでは……
「……おおい、萌ちゃん?」
顔を上げると川上が不思議そうな顔でこちらを見ている。
日曜日の朝、図書館で勉強すると嘘をつき、萌は川上のレストランでジャガイモを洗っていた。
「目を開けたまま寝てる?」
「え、え、いえ、そんな馬鹿な」
慌てて背筋を伸ばし、洗い終わったジャガイモを大きなたらいに入れる。
「あ、俺が持つよ」
正バイトの伊東が萌の後ろから手を出して、たらいを調理台の方に持って行った。
「萌はバイトじゃないんだから、そこでゆっくりしてくれてていいんだぜ?」
「そうそう」
川上が頷く。
「バイト料、払えないし」
「いいよ、お昼ご飯、ご馳走になるつもりだから」
言いながら、今度は人参を洗う。
「そうそう、そう言えば」
川上がジャガイモを綺麗な形に切りながら萌を見た。
「さっきの話の続きだけど」
何の話か覚えていない。恐らくぼおっとしていたのだろう。
「先週の火曜日の夜、涼と詩織が来た時にさあ」
萌は瞬時硬直する。
そして川上を見つめた。
「…………え?」
川上がにこにこしながら後ろを振り返る。
「な、櫂」
「……はい」
萌は目を見開き、そして川上に問いかけるべき言葉を必死で探す。
「あ、あの……」
唇が震えた。
「……村山さんは元気だった?」
「ああ。相変わらず仕事が忙しいとは言ってたけどね」
思わず頬が緩む。
元気なら、いい。
「……そっか」
「でも……」
「え?」
悪い予感がするような接続詞に、慌てて萌は顔を上げた。
「でも……って何?」
すると彼は少し戸惑ったように首を振った。
「いや、たいしたことじゃないんだ。何か雰囲気が随分変わったなって思ったから。前とは別人みたいな感じでさ」
萌がじっと見つめると、彼は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「ほら、あいつって、イケメンの割に何となく気弱そうで、優しいんだけど頼りない感じが濃厚だったろ? それが何というか、輪郭がはっきりしたって言うか、端然としてたって言うか、クールになったって言うか……」
彼は困ったように横に来た伊東を肘で突く。
「な、お前はどう思った?」
「どうって……」
「第一印象さ」
伊東はどうしてか硬い表情で萌を見る。
「すごく、もてるだろうなって思いました」
「だろ? そう、羽島さんも同じ事言ってた」
「……羽島さんて、常連さんのどの人でしたっけ?」
「三十過ぎのOLだよ、ほら、あんとき、今日はどうしたの! 村山君って存在感薄っ、て感じだったのに……って言ってた子」
伊東は頷く。
「以前は奥さんの後ろに隠れるみたいにして入ってきて隅で小さくなってたのに今日は違う、って言ってた人?」
「それは小島さん」
「じゃ、村山さんが店に入って来た途端、場の雰囲気が変わったって言った人?」
「そうそう」
川上は何故かため息をついた。
「詩織も大変な亭主を持ったよな。あんだけ格好良かったら、女としては気が気じゃないだろ。俺だったら、不安で不安で一杯になる」
その辺りは萌にはわからない。
村山を所有どころか、側にいるのが当たり前などという大それた事を考えたこともない。
ただ、村山がさらに格好良くなったということは、さらに萌から遠ざかるというのと同義語だ。
それは確かに寂しい。だが……
(嘘か本当かはわからないけど、以前は村山さんもあたしと同じ悩みを持ってた)
思い上がりかもしれないが、萌と同様に今のままではいけないと思ったのではないか。
何か取り巻く状況に後押しされて、踏み出せなかった一歩を進んだだけなのではないか。
(あたしが度胸なくて踏み出せないその一歩を……)