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まどろみ  作者: 中島 遼
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虫垂炎3

「一週間ほど前に、当該患者とその彼を手術した病院の院長、そしてER担当だった産婦人科ギネの若い医師ら三人が駅前の料亭から出てくるのを、うちの茉莉が見てる。動作が不自然だったからよく覚えていると言っていた」

「……え?」

「あいつは記憶力のいい女で、まず間違いはない。会話も側を通ったときに少し聞こえ、患者は便秘症で酷いときは一週間ぐらい便が出ないと言っていたらしい」

「……それは難物ですね」

 脳外科の優秀な主任看護師についてではない。便秘の事である。

「しかも茉莉が見ているときに、その患者は医師に向かってこんな動作をしていた」

 篠田は服の上からへそと右上前腸骨棘を一度人差し指でなぞり、その直線の右から三分の一あたりで腹を強く二度押した。

「マックバーニ-点?」

 虫垂炎ではそこが痛くなることが多い。

「そして、次に痛みの動作を演じたそうだ。……ブルンベルグ徴候の」

 ブルンベルグ徴候とは、反跳圧痛のことだ。ゆっくりと腹壁を押した後、急に圧迫を解くと強く疼痛を感じる状態を言う。

 これも虫垂炎の診断方法として教科書に載るほどのものだが、実のところ、村山の感覚ではまさにブルンベルグと言うような徴候を訴える虫垂炎患者は二人に一人より少ない。

「ついでに言うと、その仕草を患者がした瞬間、医師は慌てて首を振り、周りを見渡したらしい」

「……まさか」

 言いかけて村山は口ごもった。

 さすがにその言葉は怖くて口には出来ない。

 しかし篠田は静かに頷く。

「詐病だ」

「……そんな」

 背筋にぞっと寒気が走る。

 あってはならない話だ。しかも医師が手引きして練習させたとなると……

「でも、わずかですが微熱がありました」

「体温計など、こすればそれくらいはすぐに上がる」

「モルヒネ以外の痛み止めは効かなかったって……」

「そこは演技でなんとかなる部分だろう。というか、炎症サインですら既に全部演技なんだから」

「何故、そんなことを」

「患者は最近この町を横行している暴力団につながりのある男だ。金で雇ったんだろうさ」

 村山は首を振る。

「そうではなくて、ギネの先生のことです」

「祥平の経歴に傷をつけたかったんじゃないかな」

「でも、明石先生に落ち度はないと思います」

「画像診断で何もないからと言って、症状が出そろっている虫垂炎を見逃してしまう方がリスクは高い、と先方は主張している」

「それは間違いではありませんが、明石先生は手術をしないと言った訳ではなく、入院させて様子を見ようとしただけなんでしょ?」

 それを勝手に出て行った方が悪い。

「悪評さえ立てばそれでいいんだ。それでなくてもあいつ目当てで来た患者は、悪い噂を聞けば一瞬でパッシング側に廻ることだろう。祥平が嫌になってアメリカに帰りたがるような状況としては十分だ。それと……」

 篠田は不機嫌そうに眉を寄せた。

「最近、バイアルの破片がどうしてかあいつの靴に入っていたりとか、色々と妙な事がよく起こるらしい」

「どういうことです?」

「そのまんまだ」

 村山は腰を浮かせた。

「明石先生はそれについて何と?」

「祥平とは話をしていない。たまたま目撃したナースからの伝聞だ」

 篠田はため息をついた。

「多分、俺のせいなんだろう」

 村山は顔を強ばらせて首を横に振る。

「それって」

「俺があいつをこの病院に引っ張ってきたことは周知の事実だ。そして、はからずもあいつが腕の良い外科医だということがわかり、そして今泉がいなくなってからは外科の株が急上昇している。そうしてそれは全て俺に利する」

 構造はわかる。

 志村に比べて篠田は今のところ失点らしい失点はない。

 少しでもその影響力を削り、また、人気につながるような懸案はつぶしたいというところだろう。

「でも、小金井先生もいないし、今、明石先生がいなくなっては……」

「わかってる。だから医長クラスの外科医を二人募集するつもりだ」

 既に篠田が動いていると知り、村山は唇を噛む。

「明石先生と小金井先生の意思は確認されたんですか? 特に小金井先生はまだ殺人犯と決まったわけじゃないですし」

「俺が決めたなら明石は文句を言わんだろう。小金井にしても帰って来たところで、ここには残れないし、残らんだろうさ。あの性格ではな」

「そうなんですか?」

「神経質で、人の目を気にする男だ。平常心でメスを握れと言っても無理だろう」

 村山はその言葉を頭に刻みつける。

 実のところ、小金井については状況証拠しか警察はつかんでいない。

 その微妙な部分が悩ましいと思っていたが、仮に釈放されても小金井が戻ってこないなら不起訴になっても問題はない。

 佐々木の分析は信用できないが、篠田がそう言うなら間違いないだろう。

「俺が言いたかったのはそのことだ」

 篠田はコーヒーを飲み干す。

「これから一外は今以上に大変になる。覚悟しておいてくれ」

 村山は言い返そうとしたが諦め、黙って頷く

 そうして挨拶もそこそこに部屋を出た。

(ふう)

 病棟を覗いた後で医局に行って業務を行うが、とてものんびり仕事という気持ちにはなれない。

 仕方なく彼は切りのいいところで仕事を切り上げる。

(……畜生)

 家までのいつもの道を歩いていると、どんどん腹が立ってきた。

(……何の関係もない明石先生を巻き込んで)

 篠田は自分が巻き込んだと思っているが、本当はそうではない。

 敵が勝手に明石に手を出したのだ。それも医師道に反するようなやり方で。

(……許せない)

 義兄の取り澄ました顔を思い出しただけで、胸が悪くなる。

(今度こそ、息の根を止めてやる)

 もちろん、殺すつもりはない。死んだ者は飾られる。

 できれば生きたまま、みっともなく地面を這いつくばらせることを彼は望んだ。

 姉が今すぐにでも離婚したいと思うような、情けない姿を彼女の目の前でさらさせるためにも。

(……今度こそ)

 思った時に、篠田の言葉が脳裏をよぎった。

「人は夢を追っている限りは折れない……か」

 彼は目を細める。

 志村の夢がこの病院の院長になることなら、それを不可能にしてしまえばいい。

 元々、村山は篠田に椅子を預けるつもりだったのだから、

(その時期を早めるだけのことだ)

 彼は足早に家に帰り、真っ直ぐにキッチンへと向かった。


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