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まどろみ  作者: 中島 遼
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虫垂炎2

「ま、循環器内科はやりがいがあるし、それも大きいとは思うけどな」

 言い訳がましく付け加えた篠田に、思わず村山は嫌みを口にする。

「……循環器内科以外はやりがいないですか?」

 すると彼は真面目な顔で肩をすくめた。

「もちろんあるさ、いや、脳外なんかありすぎて困るぐらいだ。何でこの歳になって三時間睡眠とか普通なんだろうって思うよ。しかも副院長になってから、やたらみんなが臨床から俺を外そうとするから、それさえストレスになるほどに、だ」

 彼の病院では、忙しくてかつ定められた短い時間に生死を争う科の上位二つに循環器内科と脳外科がある。

「こんなんで女囲える志村は確かに傑物だ」

「……先生」

 非難のまなざしを篠田は笑ってかわした。

「ま、忙しいのはうちばかりではないがな。それでなくてもここ数年、変な集団発作とか、理解不能な症状の患者も増えてるし……」

 そうして彼は目を細めた。

「君も聞いてるだろ、最近、若い子が薬物依存症でよく運ばれてくるのを」

 薬物乱用は関西にいた頃はさほど珍しくはなかったが、この町では極めて稀だった。

 鉄道の土地買収などに絡み、暴力団がこの一年ぐらいで増えたというのが理由だと聞く。

「中田先生も大忙しですね」

 篠田は顔をしかめる。

「ややこしいのは、その薬物が同定できないってとこだ」

「え?」

 村山は驚いた。

「うちの機器、そんなにぼろかったでしたっけ」

「そんなはずはないとは思ったが、不明ということだったので外注に出した。だがそれでも駄目だ。ジーシーマスでも引っかからん」

 GC-MSとはガスクロマトグラフ質量分析計の事である。

「LC-MS/MSは?」

 そちらは液体クロマトグラフタンデム質量分析計といい、熱に弱い毒物などにも使えるのでGC-MSよりもスクリーニングには適している。

「再検査用にもう一度血清を送った」

 やることはやっていると言う事だ。

「症状は?」

「薬が効いている時は周りのいいなりになる。本人は好い夢をみている気分だそうだ。切れると切々と倦怠感や不安を訴えるが、幻覚症状はなく暴れることはない。いや、むしろこの場合ですら従順とも言える。そして、不思議なことに一ヶ月ぐらいで突然、依存症が消えて正常になる」

「覚醒剤? それとも麻酔薬なんですか?」

「詳しいことは調査中だ。話を聞いている限りでは、ドパミン過活動状態にも思えるんだが、それにしては挙動が妙だしな」

 篠田は一度眉を寄せ、そして一つ息をつく。

「……さて、この話はとりあえず置いといて、本題に入ろう」

 篠田が彼を呼びつけた理由が、冒頭の話だと思い込んでいた村山は首をかしげる。

「本題、ですか」

「明石のことだ」

 村山は思わず居住まいを正した。

「明石先生が、俺を何て?」

「奴は何も言ってない」

 篠田は笑いをこらえるように一度口を閉じ、そして真面目な顔に戻ってから言葉を発する。

「あいつを、そろそろアメリカに帰そうと思ってな」

「えっ!」

 驚いた彼に篠田は頷く。

「今の一外の状態はわかってる。小金井もまだ帰ってこないし、内実はぼろぼろだ。だが……」

 小金井は逮捕された訳ではないが、戻って来てはいない。

 佐々木の情報では犯罪者でないことを証明し、かつ、不当な疑いをかけた警察をやりこめようと頑張っているとのことだが、どこまで本当かはわからない。

 ただ、警察に連れて行かれてから、小金井の評判は更に悪化した。

 鉗子を人に向けて投げたとか、壁に向かってぶつぶつ呟いていたとかいう誹謗中傷のたぐいが以前の五倍ぐらいに増え、仮に無罪放免されたとしても恐らく小金井はこの病院を去るだろうと佐々木は分析している。

 なのに、そんな状況の中、手術件数は増えていた。

 半年ほど前からぽつぽつと他病院の外科医が明石の手術の見学に来ていると思っていたら、やがて明石に執刀して欲しいという患者が日に日に増加し始めた。名古屋はもちろん、最近では九州や東北からも引き合いがある

 以前、村山が週刊誌を使って打った手が、今頃効いてきたらしい。

「それなのに、何故?」

「俺のせいであいつが嫌な目に遭うのを見過ごすことはもうできない」

 さらに村山は目を見開いた。

 明石が嫌な目、というのは初耳だ。

「どういう意味です? 名医なのにこんな田舎でくすぶってるって事ですか?」

「そんなレベルの話じゃない。わかってるだろ、お前だって」

 彼は首をぶんぶんと振る。

「まったくさっぱりわかりません。一体、何の話ですか?」

「虫垂炎の手術でパッシングを受けているのは知っているな?」

「はい」

 十日前の夜間救急で、急性腹症の患者が運び込まれた時の話だ。

 腹痛の右下腹部移行が顕著な症状だったが、CTでは異常は発見されなかった。

 救急担当の医師からコンサルトを依頼された明石はすぐに切ろうとはせず、入院させて様子を見ようとしたが、痛みに憤った患者は勝手に出て行き、他の病院で手術を受けたら虫垂炎だったと言う話だ。

 患者は怒り、訴訟問題に発展しそうな勢いである。

「明石先生にしては珍しいとは思いますが、世の中にない事例ではありません」

 虫垂炎の診断は意外に難しい。

 早期の虫垂炎はCTで陰性に見えることもある。

 ただ、逡巡していると容易に進行が進んで重症化するので、疑わしい場合はとりあえず開けてみる医師もいるほどだ。

 篠田は肩をすくめた。

「カルテ、見たか?」

「いいえ……でも佐々木先生にCT画像はちらっと見せてはいただいてます」

 言っては何だが虫垂の位置が遠く、使えない写真だった。

「これを見れば、大体の様相はわかると思う」

 篠田はテーブルにあった青いファイルを取り、頁を繰って村山に見せる。

 そこにはカルテの写しがあった。

 病院に来る前に嘔吐二回。前夜はみぞおちから臍の辺り全体に痛み。咳で痛みが悪化。

 来院時所見は食欲なし、吐き気有り。当該部位の筋肉には硬さはない。

「オブチュレイターもロブジングサインも有り……か」

 骨盤腔内の炎症サイン、右側の腹膜刺激も陽性。

 それだけではなく、虫垂炎診断に使用する全ての動作、ポイントで痛みが出現している。

 正直、一般的な虫垂炎で、ここまで症状が出そろうことはあまりない。

「体温三十七度、白血球異常なし。CT否定的、エコーでは患者が痛がり、正常虫垂の観察できず。」

 スコアからするとかなり微妙な線だが、診断が出そろっているので開けてみた方が絶対に安全な感じだ。

 あとは直腸診を二度拒否されたことや便秘の所見など、細かい事が一杯書かれていた。

「不思議に思わないか?」

「何がです?」

「明石のカルテ」

「救急にしては詳細にすぎると思いますが」

 コンサルトを受けたのが村山だったなら、CT撮る暇があったら先に呼んでくれと救急医に悲鳴をあげて手術の準備をするだろうに、ひどく慎重な診察だった。

「明石先生はどんなときでも落ち着いてますよね」

 篠田は村山を見つめる。

「……まあいい、先に違うことを話そう。壁に耳ありという故事成語だ」

 村山が首をかしげると、篠田は苦い顔をした。

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