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まどろみ  作者: 中島 遼
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虫垂炎1

「澄ちゃんとこに行ってたんだって? 悪かったな、呼びつけてしまって」

 病院に行き、脳外科の医局を覗くと、篠田は横にある小部屋に案内して彼を座らせた。

「いえ、どうせ出勤するつもりだったので」

 祝日で誰もいないため、副院長の篠田が自分で湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れてくれた。

 そうして、警察の調査の概要を話す。

 その内容は彼の想定内であり、レベルとしては数段低かった。

「すると、義兄さんのパソコンにアクセスして、義兄さんの振りして論文を送った奴がいる、と?」

「そう。そしてたどっていくと、大学のサーバーに行き着いたと言うわけだ」

 村山はわざとらしく顔をしかめた。

「誰だったんです?」

「そこまではわからないらしい。大学のサーバーを使って悪さをした、というだけで、大学の人間とは限らないだろ」

「本当に?」

 彼が問うと、篠田は微かに笑った。

「警察はそう言ってるというだけだ。誰もが大学の誰かを疑っている。志村のことをよく思ってない、大学の者をね」

「そんな人がいるんですか?」

「どこにでも敵はいる」

 篠田は村山の前にあるコーヒーカップを見つめた。走ってきて喉の渇いた村山が、一気に飲み干したために空っぽだ。

「飲みたければ追加を自分で入れてくれていいぞ」

「ありがとうございます」

 遠慮なく村山は立ち上がる。

「ま、これでさらに志村派は勢いつくだろう」

「え?」

 村山は、驚いて篠田の方を振り向いた。

「何故ですか?」

 村山の想定では、お互いに不信感を抱きあう志村と大学がうまく行くはずもなく、早晩喧嘩別れすることになる。

 そうなると、大学をその地盤としている志村は院長の椅子から遠ざかるという寸法だった。

「誰が犯人だかわからない、という状態は、大学側に後ろめたさを感じさせるに十分だ。そしたら、これ以上の捜査を依頼しない、という決着方法で、志村は大学に恩を売るだろう」

「……買いますか、そんなものを?」

「大学が買うのは志村の恩じゃない。志村院長の君臨する、未来のこの病院の権利だよ」

「権利?」

「多額の研究費用と意のままになる臨床研究用ベッドさ」

 村山は今度は本当に顔をしかめる。彼の想定したケースの方が現実になる確率が十パーセント以上も高かったのに。

「難しいんですね、世の中は」

 念のために用意していた次の罠に思いをはせる。

 彼の思惑と異なる状況になっても対応できるように置いた布石を、ここまで使うことになろうとは思いも寄らなかったが……

「ま、君は特に政治的な話には向いてないようだしね」

 篠田はコーヒーに口をつけた。

「こういう話でキレを見せるのはやっぱり詩織だな」

「そうなんですか?」

「俺が見たところ、ピカイチだ。君ら夫婦の組み合わせは天の配剤だよ」

 村山はポットの湯をカップに入れて、再び席に戻る。

「君は細かい事象を分析するのは得意だ。だが、不特定多数の人がその分析の積み上げのまま動くことはない。大抵、その総和は想像もしない方向へと動き、分析を裏切る」

 どこかの哲学者の言葉のもじりに、村山は頷く。

 いつも心のどこかで感じていたことがそのまま文言になったように、それは、ひどくしっくりくる。

「詩織は広い事象エリアの適切な定点観測のポイントを掴むのが上手く、その総和が向く方向を正しく感じ取るのが得意だ。ただ、論理が希薄だから人を説得する際には重厚さに欠ける」

 それも、何となくわかる。

「詩織はまさに院長向きの性格だよ」

「……家でも、人を使うのが上手ですしね」

 篠田は笑った。

「桐原の小父さんはとてつもなく大きな間違いを犯したな」

 本当にそうだった。詩織が医師になり、院長候補になっていたら、最初から何事も、何一つ、起こらなかったに違いない。

「……で、最初の話に戻りますが、これで義兄さんは一歩リード?」

「そこまではいかんだろうが、ビハインドは取り戻した。むしろ、このことがあったがために勢いは向こうにある」

 そういうことも村山は読めない。あらかじめ作った連関図にその項目が一応載っていることを確かめるので精一杯だ。

「とは言え、長期戦するつもりで俺は副院長になったんだから、別に前と変わったところはないんだがな」

 村山は小難しい顔をしてみた。

「でも、義兄さんは週刊誌に私生活を暴かれてます。それが結構マイナスになるのでは?」

「女性関係なんて男の甲斐性さ。囲ってる数が多い方が、懐が広く見られるもんだ」

「そんな!」

「おっと、間違わないでくれ、俺がそういう主義というんじゃない。世間はそう見る、というだけだ」

「女性は不愉快に思うのでは?」

「少なくとも、理事会で女は詩織と当事者の澄ちゃんだけ。あとは頭の古いじいさまばかりさ。時間が経てば醜聞などどうにでもなる、それより大学との関係をこちら有利にしてくれる志村先生が院長になってくれれば、って思うだろう」

 押し黙った村山を、篠田は気の毒そうに眺めた。

「お前達姉弟は、すこぶる不愉快だろうけどな」

 不愉快などと言うレベルではない。

 しかも、澄恵自身が、男の甲斐性的な発言でそれを認めているのが更に許せない。

「当のご本人はどうなんでしょうね」

「ばれちまったか、ぐらいだろう。そんなことで折れるほど柔な男じゃない」

 村山はため息をつく。

「あの精力的な人が折れるなんて、絶対にないように思います」

「人は夢を追っている限りは折れないものさ」

 村山は微かに眉をひそめる。

 夢とは、彼が小さい頃から毎日ゴミ箱に投げ捨てていたもののことか。

「義兄の夢って何でしょう」

「わからんが、一つだけはっきりしているのは、あいつにとって、夢を叶えるに必要なのは院長の椅子だ」

 篠田はカップを置いた。

「あるいは、今となってはそれが既に夢なのかも知れん」

 村山には理解不能な世界である。

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