モーニング1
時計を見ると、名古屋発最終の新幹線に乗るにはぎりぎりの時間だったので、村山は慌てて帰宅準備に入った。
「ああ、今日はお前、前泊だっけ。明日は帰ってくるの?」
尋ねてきた佐々木に頷く。
「はい。ただ、直帰させていただく可能性が高いです。東京を出るのが何時かによりますが」
「いいよ、いいよ、早くったって直帰しとけ。でないと身体がもたないし」
「じゃあ、遠慮なく」
言いながら机を片付けていると、佐々木が椅子に座ったままこちらにがらがらと音を立てながらやってきて、そして小声でささやく。
「……そう言えば、最近、セクハラはどう?」
意味がわからなくて佐々木を見る。
「……え?」
「しらばっくれなくていいんだぜ、もう、病院中の噂になってるし」
村山は顔を強ばらせた。
「本当にわかりません」
全くもって、記憶にない話だ。
「一体、俺が誰にセクハラをしたことになってるんです?」
「違う、違う、チッチ君がお前に、だ」
「……は?」
あまりの事に、呆然と佐々木を見つめる。
「言いたくなければ言わなくてもいいけど、チッチ君の色目、ばればれだから」
佐々木は彼の右肩を叩いた。
「もてる男は辛いよな。若い女だけならともかく、上司や婆さんにまで迫られてさ」
「婆さん?」
「狐憑きの婆さんがお前を押し倒したって噂も聞いたぞ?」
村山は顔をしかめた。
「あれは、そういうんじゃなくて……」
「じゃ、チッチのはやっぱりそうなんだな?」
「ち、違いますっ」
「慌てるところが怪しいって。でもま、お前がただの被害者だってことはみんなわかってるから心配するな」
口を開きかけて村山は黙った。
(……これは)
この間の立ち聞きの際、佐々木は何かを勘違いしたのかもしれない。
(どうせ、病院中の噂にしたのはこいつだろうし)
何か一所懸命話をしている佐々木の言葉を聴いている振りをしながら、村山は頭を巡らせて肝心要の事を確認する。
「佐々木先生にその話をなさったのは太田先生ですか?」
「いや、そんなんじゃない、ただ……」
「ただ?」
「俺がずばり言ったらあっさり吐いたのは確かだけど、太田先生が自分から吹聴した訳じゃない」
ということは、太田もまた、何かしら勘違いをしている可能性が高い。
「太田先生は何と?」
村山は少し迷った後、不機嫌な顔を作った。
「佐々木先生と二人で俺のこと、何か酷い話にしてませんか?」
村山にしては珍しいリアクションに、佐々木は少しびっくりしたような顔を見せる。
「事実をありのままに、だ」
「それを歪めていないかどうかをお聞きしてるんです」
佐々木は下卑た笑いを口の端に浮かべる。
「手を握られて、迫られたんだろ?」
(……やはり)
幸運なことに、話は違う方向に曲がっていた。
このまま佐々木が勘違いを続け、そしてこのとんでもない噂を広めてくれれば、小金井も村山の観察をしにくいだろうし、近づきにくくもなるだろう。
「ま、大丈夫、俺がついてるから」
村山が黙りこくっていると、佐々木は再び背中を叩いた。
「絡まれそうになったら、ピッチで呼べよ。かけつけてやるから」
人の困っているのを見るのが楽しくてしょうがないような顔で、佐々木は笑った。
「ま、俺の手術中は無理だけどさ。そういうときはなるべく医局にいるのを控えるんだ、それと……」
と、扉が開き、当の小金井が入って来た。
慌てたように佐々木が立ち上がる。
「おい、そう言えばお前、新幹線の時間はいいのか?」
「あっ!」
時計を見てから驚いた振りをして、村山は頭を下げる。
「最終にぎりぎりなので、済みませんがお先に失礼します」
わざと小金井とは目を合わさないようにすると、佐々木はしたり顔で頷く。
「急げよっ!」
白衣を脱いで、用意していたバッグを持ってエントランスに急ぎ、止まっていた客待ちのタクシーに乗り込む。
(……ふう)
佐々木のお陰で、少し彼の肩の荷はおりた。
村山は目を細める。
(今夜はよく眠れそうだ)
先方との約束の時間、ホテルの位置を考えると、ゆっくりと朝寝ができる。
何とかその日のうちにホテルにたどり着いた村山はそう思ったが……
「!」
近づいてくる救急車のサイレンの音に、彼はがばっと飛び起きた。
そうしてそこが出張先のビジネスホテルであることに気がつき、心の中で悪態をつく。
時計を見ると、目覚ましをかけていた時刻の一時間前だ。
ため息をつき、ベッドから出る。
そうしてシャワーを浴び、身繕いを済ませると、ちょっと早かったが新聞を持って朝食のために階下に降りる。




