ジョン2
その週の日曜日、萌は独りになりたくて、川上の店にはいかずに家でぼおっとしていたが、あまりに天気がいいので、北の山辺りをうろうろしてみようと考え、外に出かけた。
県道まで歩けば、乗り換えなしでバスに乗れる。
(……一人で来たって言ったら圭ちゃん、怒るかな)
思いはしたが、今日は一人でぶらぶらしたい気分だ。
バスは割と早くに終点についた。
(……懐かしいな)
終点にあるのはもちろん総合病院だ。
萌はしばらく病院の前で立ち尽くす。
(外科病棟はぼろい方って村山さん言ってたっけ)
向かって右奥にある古い建物の入り口を、萌はじっと眺めた。
万に一つでも、村山が外出するとか、空を見たくなったとかで出てこないかと思ったのだ。
しかし、十分待っても誰も出ては来なかった。
病棟の窓にその姿がちらりとでも現れないかと思ったが、一向に何事も起こらない。
萌は小さくため息をついて、病院の前を通り過ぎ、北山への坂を上る。
(……ああ、そうか)
高津と来れば、こんなところで佇んだりは出来なかったろう。
(だから……)
どうしてか胸が痛い。
萌は一度首を振って、坂を上った。
北山の木々は初夏の瑞々しい緑で覆われている。
もっと登れば、病院を上から見下ろすこともできるだろう。
(あ)
何となくショートカットできそうな道を発見し、萌は進んだ。
だが、道は上には行かず、しかも山の中へとどんどん入っていくようだ。
(この道は違う、か)
仕方なしに引き返したが、どうしてか最初に歩いていた道が見つからない。
(……というよりは)
最初の道をそもそもあまり覚えていなかった。
思えば、こういう所を歩くときは、必ず村山か高津がいた。
彼らはびっくりするほど距離感や方角を把握し、決して迷うことなく目的地に着いたので、さほど山道に不安を抱いたことはなかったのだが、
(……まずい、かも)
考えてみれば自分にそのスキルはない。
携帯を見たが、アンテナが立っていなかったので、助けは呼べない感じだ。
(……村山さんの携帯は、山の上でもアンテナ立ってたのに)
電話会社によって、その辺りは随分違う。
それとも、場所によっても違うものなのだろうか。
萌は携帯に頼ることは諦め、とにかく周辺をフィーリングで歩き始めた。
こんな小さな山なら、いつか端まで出るだろう。
しかし、何となく辺りが暗くなってくると、いささかの不安が頭をよぎる。
こんな所で迷ったなどと知れたら、今後一切、北の山での一人歩きは禁止されるに違いない。
それに、
(お腹空いた)
恐らく、あと二時間ぐらいで限界が来る。
(困ったな)
この季節、日は長いのが救いだが、それでも萌の歩いている側はどうやら東に面しているようで、しかもうっそうと木が茂っているので相当暗い。
夢の経験で、クモの巣が頭に引っかかったくらいでは驚かなくなったが、それでもブンブンと飛び回る羽虫はうっとうしいし、刺されるとかゆくなる。
(……あれ?)
さすがの萌も焦り始めた頃だった。
一瞬、何かがチカッと光った気がした。
距離は遠いが人工的な明かりに思えたので、萌はそちらに向かってみる。
木々をかき分け、道とも言えないような草だらけの隙間を縫いながら進むと、十五分程度歩いた頃に、ようやく人らしき姿を見つけることが出来た。
「すみません~」
大声で呼ぶと、帽子をかぶった人物がこちらを見る。
(……あ)
サファリジャケットにジーンズ姿。蓄えたひげは金色で……
男が何かを言ったが、萌にはわからなかった。
「……ええっと、あの、はうでゅーゆーでゅー?」
再び言葉が返ってきたが、ほとんど理解できない。
「……みどりん」
仕方なく萌は、隣にあった大岩を指し示しながら小さい声を出す。
「この岩の陰ぐらいに出ておいで」
そこならこの外国人からは見えない位置だ。
「で、通訳してくれないかな」
「同じ星の人間同士なんだから、自力で喋れよ。しかも相手が喋ってんのは公用語だろ?」
みどりんが嫌みを言った。
「正直、俺の能力MAX値をミリオンとしたら、お前、この仕事は小数点以下五桁くらいのレベルだぜ」
萌は無視して外国人を見つめた。
「あの、実はあたし、道に迷ってしまったんです」
「あんた、名前は何だい?」
この三十代ぐらいの男に、その吹き替えは似合ってないように思ったので、萌は小声で指示を出す。
「みどりん、普通な感じの会話にして」
「了解」
「神尾萌。貴方は?」
「俺はジョン」
犬みたいな名前だ。
「貴方も道に迷ったの?」
すると相手は笑った。
「俺は目的通りにここにいる。だが、目的を果たせそうにないんで、とりあえずふもとに降りようと思った途端に奇跡が起きた」
「……は?」
「それが君によるものなのかどうかを確認したいんだが、いいかな?」
日本語の翻訳がおかしいのか、相手が何を言っているのかがまったくわからない。
「あたし、とりあえず下に降りたいんで、道、教えてもらってもいいですか?」
「そういうことなら俺も一旦下に降りる」
萌はほっとした。
「良かった。じゃあ、後ろをついて行っていい?」
「それは構わないが、君は何しにここに来たんだ?」
「散歩よ」
「何でまた……」
言いかけた男は一度空を見上げた。
「まあ、話は歩きながらでもできる。確かに日が沈む前に山は降りた方がいいな。行くぞ」
慌てて萌は後についた。




