梅雨の入り1
梅雨入りはしたが、その日は晴れていた。
相変わらず、予備校では一言も口を利かない日々が続いていたが、慣れると意外に快適だということがわかってきたので、萌はそれなりに楽しく学校に通っている。
ごくたまに、間違えたか何かでクラスメイトから話を振られたり、あるいは言葉をかけられたりすることもあったが、それは百パーセント何かの間違いだと割り切って無視していたら、最近はそれも全くなくなった。
もちろん、人の眼が気になる事には変わりない。
だが、それは百合子や和実と会話をしていた頃もそうだったので、逆に言えば、知らない人から声をかけられて動転するという危険が減っただけである。
(お陰で勉強ははかどるし、いいことばかりよ)
それは決して負け惜しみではない。
予備校に行き、勉強以外のことに頭を使わないのが当たり前になると、徐々に席次は上がった。
四月の全国模試では偏差値三十後半だったのが、最近では五十足らずぐらいまでになっている。
(このペースで頑張れば、計算上は冬休みには七十超えてる訳だし)
予備校を出た萌は伸びをした。
そして、てくてくと駅前のバス停へと向かう……と、
「萌」
聞き覚えのある声に振り向くと、噴水の横に伊東が立っていた。
「久しぶり」
「あ、うん」
確かにこのところの土曜日は、親戚が遊びに来たり、模試だったりとで忙しく、川上の店には行っていなかった。
「今、暇?」
受験生に暇なんてない……って言いたいとこではあるが、
「暇」
実は萌も伊東に会って、何か収穫がなかったかを聴きたいと思っていた折だった。
だが、
「でも、今日ってバイトの日じゃないの?」
「急になくなったんだ。川上さんの都合で」
「そうなんだ」
萌がそう言った時、予備校の方から女子の集団が歩いてくるのが見えた。
中心には由美がいる。
「あ、伊東君!」
萌とは全く目を合わせずに、由美が嬉しそうに手を振った。
「やあ」
伊東も明るく微笑む。
「元気そうね、大学楽しい?」
「おかげさまで」
由美も笑った。
「じゃね」
手を振り、由美はすれ違った。
遠ざかっていく四人の女子の声が遠く聞こえる。
「え、ちょっと、かっこいいじゃないっ!」
「由美、同じ学校の子?」
「うん」
「……ひょっとして、あれが例の二股の?」
萌はその声が伊東に届いていないことを願った。
「そうそう」
それも微かになっていき……
「でも……顔はいいけど、三流大学だから」
驚きのあまり、思わず萌は振り向いた。
確かに大学は有名ではないが、伊東のいる学科には質のいい研究をしている先生がおり、その専門領域の人からは一目置かれる論文なども多数ある。
史学科だけの話をすれば、偏差値だって結構高い。
(……そんなこと、調べた上で言ってるの?)
すると、目が合った同級生たちがくすくすと笑った。
激しい怒りを感じ、萌がキッと相手を睨んだそのとき、
「行こうか」
萌の袖を引き、伊東が歩き出した。
「……え、あの」
「今の大学、行きたくて入ったから」
伊東にもあの言葉が聞こえていたのだと思うと、腹立ちで顔が熱くなる。
「俺、何も恥じることしてないよ」
だが、そんな萌に伊東はどきりとするほど優しく笑った。
「あ」
思わず萌もつられて笑む。
「そうよね」
逆に、自分の小ささが恥ずかしくなる。
全てを忘れるようにと頭に念じ、萌は伊東を見上げた。
「ドーナツでも食べる?」
伊東が頷いたので、二人はファストフードの店に入った。
「蛙騒動、最近聞かないね」
コーヒーを飲みながら、伊東が萌を見る。
「そうね」
食感がもっちりしたタイプのドーナツをかじり、萌は返事を軽く済ませた。
「どっか行っちゃったのかな」
「多分ね」
「どこ行ったんだと思う?」
カフェオレを一口飲み、萌は笑う。
「うーん、宇宙のどっか?」
「宇宙?」
伊東もパイをかじった。
「そっか、蛙、宇宙人だったんだ」
「……ち、違うの、仮の話よ。本気にしないでね」
伊東はどうしてか不思議そうな顔をして、萌を見る。
「……なに?」
「いや」
苦笑いにも見える表情を見せ、伊東は再びコーヒーを飲む。




