予備校2
そして、当日。
定期券があるので交通費がかからないことを密かに喜びながら萌がバスを降りると、伊東がこちらを見て手を挙げた。
「おはよう」
「おはよう、伊東君、ごめん、待っててくれたの?」
「いや、今来たとこ。時間からして、このバスで来るんじゃないかって思って」
横に並んで歩き出すと、伊東はこちらを見ながら少し微笑んだ。
「良かった、元気そうで」
「あたし、あんまり風邪とかひかないから」
「そういう意味じゃないんだけどな」
伊東はそのまま前を向いた。
「どう? 予備校は?」
「まあ、そんなに面白くもないよ、勉強するだけのところだし」
「そりゃそうか。それと、高津は元気?」
「と、思う。……っていうか、最後にあったの卒業式だから、近況情報は伊東くんと同程度よ」
伊東は不思議そうな顔をした。
「電話とかかかってこないの?」
「メールは時々。週に一回ぐらい?」
「……へえ」
さらに不思議そうな顔はしたが、伊東はそれ以上のことは聞いてこなかった。
そして、最近買って面白かったというマンガの話をし始めた。
そういうところが萌には気楽だ。
「おはようございます」
ドアを開けると、床に座り込んで野菜を取り分けていた川上が顔を上げる。
「よ、いいところに来た」
「……って?」
「十二時から突然予約が入ったんだが、うちにしては大人数でね、手が足りないんだ」
「なんだ、そっち?」
「バイト料を出す。もちろん賄いつきだ」
「手伝います!」
言われるがまま、見よう見まねで掃除からジャガイモの皮むきまで手伝っていると、あっという間に昼になった。
伊東は川上から黒いロングエプロンを借りてウェイターまでこなしている。
萌も皿洗いやドリンクの用意で結構忙しい。
全てが終わった時には既に三時を廻っており、思った以上にへとへとだった。
「お疲れさん」
賄い料理とも言うべき、トルティージャと木の実の入ったミートボールを用意して、川上は彼らと一緒に四人掛けのテーブルに座った。
「材料切れたし、今日の夜は休むから、ゆっくりしてくれていいよ」
「ありがとうございます……」
伊東もさすがに疲れたようで、いつもの歯切れの良さがない。
「君たち、結構即戦力だったな」
君たちと言っているが、実のところそれは伊東に対する賛辞である。
「いえ、全然お役に立てなくてスミマセン」
「そんなことない、さすが大学生だ」
「あたしは浪人だけど」
川上は笑う。
「わかってるって」
わかってるなら言わないで欲しいと思いつつ、萌は肉団子を口に入れる。
「それはそうと、伊東君はうちの大学に合格したんだよな」
「はい」
伊東が入ったのは川上や詩織が通った地元の大学だ。
「ちゃんとありましたよ、古文書研究会」
「ほんとか」
温かいパンにバターを塗りながら、川上は嬉しそうな顔をした。
「あったけど、スルーしたんだろ?」
「いえ、入部しました」
「ほんとか!」
今度は本気で驚いた風に、川上は伊東を見る。
「はい。サッカーのサークルと掛け持ちですけど」
「そりゃすごい」
「いや、うちのサークルは飲み専門みたいなものだから」
萌がお気に入りのバターを味わっている間、二人は大学の話で盛り上がった。
「で、萌ちゃんは来年どうするの?」
「もう一回トライです」
伊東と同じ目的で、萌は彼と同じ大学を受けて滑った。
それを川上も知っている。
「ま、大丈夫、一年頑張れば普通に入れるよ」
「はい」
頷くと、彼はもう一度伊東を見た。
「で、お前、バイトとかやってんの?」
「やりたいな、とは思ってるんですけど、都合いいのとかってなかなかなくて」
「なら、うちに来ないか?」
「え?」
「いや、実は一人いたバイトさんがやめちゃったんだ。できたら土日の昼とか、木、金曜の夜とか、忙しい曜日だけでもいいんだけど」
「うわあ」
伊東は声を上げた。
「喜んで」
そうして萌を見る。
「帰りによってくれたら、俺、いつでも会えるからな」
慌てたように川上が首を振った。
「いつでもじゃない。月曜なんかは暇だから来なくていいよ」
「じゃ、日曜日の昼と金曜の夜に」
「木曜もできたら来て欲しいんだが」
これからは近くに伊東がいる、というだけで、どうしてか萌はほっとした。
慣れない環境が、実はそれなりに辛かったのかもしれない。
「川上さん、あたしも忙しい時は手伝うよ」
「いいって、君は勉強、勉強!」
「予備校の帰りとかに」
「お母さんが心配するから駄目」
「給料いらないよ?」
川上は少し天井を見つめる。
「ちょっと考えておく」
この空間が高校を卒業してなお、自分に残されていることを萌は感謝した。