狐憑2
「シゲさんっ!」
今度は近くで声がした。
「戻っておいで、シゲさんっ!」
不意に首への力が弱まる。
同時に四肢のしびれも消えた。
「げほっ」
咳き込みながらも何とか腕で身体を起こして顔を上げると、老婆と三人の男女が眼に入る。
「大丈夫か、村山先生」
白衣を着た内科の医師が側に屈み込み、彼の喉を診た。
「うわ、内出血してるな、これは」
彼は笑った。
「優しいな、先生は。ここまで締め上げられても、相手が老人だと無抵抗でいるんだ」
「……い、いえ」
彼は後頭部を押さえた。
「頭を打って、それでちょっとふらふらして……」
内科医が顔を上に向けた。
「彼、頭を打ったらしいですよ、篠田先生」
老婆を抱えていた篠田が、横にいた看護師に老婆を預けた。
そうして村山の頭をそっと触る。
「あいてっ!」
「ここ?」
「は、はい」
「吐き気は?」
「ありません」
篠田は指でゆっくりと患部周辺を触れた後、彼に手を差し出した。
「立てるか?」
「はい」
立ち上がって白衣をはたくと、ようやく篠田が笑顔を見せる。
「直径3cm弱、ほぼ円形の皮下血腫ができてる」
要するに、でかいたんこぶがあるということだ。
一度篠田に苦笑いを返してから、改めて村山は老婆を見た。
状況がつかめなくておどおどしている風は、さっきとは別人のようである。
「あの……」
彼女は篠田を見上げた。
「わたしは何でこんなところに? それに、何でこの人の上にいたんです?」
「わかりません」
篠田は素直に答えた。
「でも……そうですね、とりあえず診察室に戻ってゆっくりとお話をお聞きしましょうか。突然シゲさんがいなくなって、ご家族も心配なさってましたから安心されますよ」
篠田は彼をちらりと見た。
「お前も後で。もう少し明るい場所でゆっくりと診察してやる」
痔の話はそのときでもいいかもしれない。
「はい」
四人の後について出て、彼らと別れてから村山はぶるりと震える。
(……訳のわからないものは苦手だ)
心底そう思いながら重い足取りで医局に向かい、ドアを開けると小金井が自席に座っていた。
(……疲れた)
言葉を出すのもおっくうだったので村山は机に向かい、引き出しを開けてカロリー摂取を目的としたスナックバーと板チョコを取り出す。
そしてポットの側まで行き、インスタントコーヒーを取り上げてカップに入れる……と、
「村山」
彼はコーヒーを置いて相手を見る。
「はい」
「これ、仕分けしておけ」
どさりと机に置かれたコピーの束は心電図である。
「仕分け?」
「正常なものと異常なものに分け、異常なものには所見を書いておくように」
「……健康診断か何かですか?」
「そんなものだ。期日は明日中」
村山は驚いた。第一外科にはそんな仕事はないし、そもそも期限が短すぎる。
「しかし……」
「不服か?」
彼は瞬時の計算の後、頷いた。
「いいえ。……承知しました」
小金井は最近二人きりの時を狙って、こういういじめに近いような行為を村山に行うようになっている。
研修医にさせるような薬剤の投与量計算を不意に振ってきて即回答を求めたり、記録を見ればいいのにわざわざ村山に二週間前に行った手術について質問したり。
(だけど……)
今泉に比べれば随分ましだ。
例えば彼は、開放創にしなければならないような傷を縫えと命じ、膿が出たら村山の衛生管理をなじった。
その点小金井の命令は、行為に意味があるかどうかを考えさえしなければ流せる程度で実害はない。
「じゃ、お先に」
「お疲れ様でした」
既に白衣を脱いでいた小金井は、かばんを持つとそのまま医局を出て行った。
村山は湯をカップに入れた後、席に座ってスナックバーをかじる。そして、心電図の束を仕方なく手にとってから一つ息をついた。
コーヒーは思いの外薄めだったので、まずい番茶を飲んでいるような気分になる。
「ふう」
当直ではなかったが、今日はオンコールの日だったので、このままここに泊まろうかとも思う。
(……疲れた)
もう一つため息をついた時、聞き慣れた足音とともに、明石が部屋に入ってきた。




